私はよく成れの果てを見る。男女平等だとか、働く女だとか、父権社会に抗うだとか、そういうものに踊らされた女の末路だ。
 だいたいそういう人は四十歳あたりで未婚もしくはバツつきで、疲れきっている。外に出て働いていたせいで女らしさは皆無になり、夢中になっていた恋愛ゲームからも蚊帳の外だ。中にはみっともなくそれにすがり付き、男に貢いでいるのもいる。
 彼女達に残っているものは何もない。ただ人が、世の中が憎いだけだ。
 今私の回りにいる若い女達も、行き着く先はこれだ。そう考えると悲しくなる。一体誰がこんな世の中にしたんだと。誰がこんな殺伐とした社会を望んだんだと。
 ちなみに成れの果ては東欧と東南アジアに多い。日本もすぐにそうなる。
 長らく日本人のふるまいに違和感を感じてきたが、最近その正体がわかった。それは臆病なくせに偉そうという事である。しかも臆病なほど偉そうになる。年齢が高くなるほどこれは加速する。また女は男より10倍臆病で10倍偉そうである。
 臆病なヤツは行動力がないのだから黙って度胸あるヤツの言う事聞いてればいいのに、何故か偉そうに指図したがる。所謂ブラック企業のブラック上司なんてのはまんまこれである。能力ねーんだから大人しくしてろよ。
 ちなみにこの法則はスラブ系民族やイラン人にも当てはまる。人見知りが激しく、すごい偉そうである。正反対な民族は、中国人、インド人、アラブ人である。
 自称イスラム過激派が犯罪を起こすたびに、非ムスリムがヒステリックに「イスラムは悪だ」とか声を挙げる。
 そして我々ムスリムが「あいつらはムスリムじゃないよ」と言うと、「じゃあ正当派ムスリムは責任を持って過激派を取り締まれ」だとか「過激派を皆殺しにしろ。そうしたら認めてやる」とか言われる。
 だがそんなことは出来ない話であるし、何故我々がそんな事をしなきゃいけないのか。全く意味不明である。丁度ぴったりの例が見つかったので、ここにそれを書く。そのような血縁の方は腹が立つかもしれないが、日本人には一番わかりやすい例である。
 お隣の国、韓国の人間は在日も含め、外国で悪さをするときは日本人を自称するのが常である。わかりやすいのはアメリカおよびオーストラリアにあるジャパニーズマッサージパーラーと書いてある売春宿はすべて韓国人の経営、韓国人の売春婦によるものである。また東南アジアでの集団レイプ、人さらい、賃金や賃料の未払いなどもすべて日本人の名前で行う。
 こんな事をされると、やられたほうは「日本人はなんて悪いヤツらなんだ!」と思う。だが、こいつらは日本人ではないし、嘘をついて本性を隠しているのである。
 それを現地の人に伝えた時に、「じゃあ日本人は責任を持って韓国人を取り締まれ」だとか「日本人は責任を持って韓国人を皆殺しにしろ」と言われたら皆さんどうするだろうか。
 そんな事をする義理はあるだろうか。また、もし仮にやる気になったとしても、嘘をついて隠れている相手をいぶりだす事なんて出来るだろうか。
 正統派ムスリムは自称イスラム過激派という偽ムスリムを取り締まれだとか、皆殺しにしろだとか言う意見はこれと同じなのである。そんなことをする義理はムスリムにはないし、例えあったとしても嘘をついて本性を隠しているヤツらを見つけ出すなんて不可能なのである。
最近ちょっと駅前をうろつく事が多いのだが、学習塾や予備校の多さにびっくりする。少子高齢化も何のその。駅前はほとんどこういったもので埋め尽くされている。ゆとり教育がどうちゃらとか言われているが、結局児童はこういった所に通っているのでゆとり教育によって学習時間が短縮されたなんていう事実は間違いである。
さて私の周りは実は高学歴が多い。東大、京大をはじめとして旧帝、早慶など錚々たるメンバーである。では彼/彼女らの人生は幸福で順風満帆なのかと言うと、答えはノーである。殆どの人間は晩婚であるし、変な女/男に引っかかって家庭崩壊もしくは離婚を繰り返す人が多い。また、変な人間に引っかかって所謂ブラック企業に就職してしまい、自分の人生を作る時間がないなんてのもザラである。
ではどうしてこういった事が起きるのか。答えは親にある。大多数の日本の親というのは、「学業さえ成功していれば自分の子供は幸福になれるだろう」という舐めた人生観で生きている。だが現実はそうではなく、学業以外に人生に大事な事は沢山ある。それを教える手間を取らずに、金に物を言わせて塾や予備校に子供を放り込み、ただ放置するだけだからこうなるのである。
人生はバランスであり、時間は有限である。限られた時間を勉強ばかりに振っているから、それ以外が疎かになって人生を失敗するのだ。日本人はいい加減この悪循環から眼を覚ますべきである。学業さえ成功すれば人生は成功するかというと、それは否なのである。以上内田貴洋の未来への警笛。
俺王国は多民族混血主義政策を採る。最強かつ最高に美しい人種の創造を目指す。
 多民族国家には差別や階層固定などの問題が付き物だが、ほとんどの国でそれが失敗しているのは、それらの国が多民族、多国間言語を使用しているからである。
同じ言葉を喋っているのに国家が違う、民族が違うという環境に彼らは慣れてしまっている。なので同じ言語を使用していても、自分達とは別物だという意識が生まれてしまうのである。
 俺王国はベースが日本語である。ここで日本の現状を見てみよう。私は日本育ちで日本語しか喋れない黒人白人ペルシャ人インド人など様々な人を見てきたが、概ね彼らは日本人であると言える。
仮に育ちが日本じゃなかったとしても、日本語を喋る白人黒人その他には親近感が湧き、自然と日本人と同じように接することが出来る。
逆に日系の血でも、日本語が喋れない、または流暢ではない人達はかなり遠い存在だと感じる。日系アメリカ人、日系ブラジル人、中国残留孤児など、はっきり言ってただの外人である。
見た目が似てるのに日本語を話せない日本国籍を持つ中国人、朝鮮人、モンゴル人、シベリアの人々、台湾人などは明らかに異質な存在として扱う。
そこに同じ白人だから、だとか同じ黒人だから、だとか同じ東アジア人だから、なんていう視点は存在しえない。私からすると異言語を話す人種を同胞として扱うヨーロピアンや黒人の感覚こそ理解できない。
これは私が単一民族言語で育っていて、彼らは多民族、多国家言語で育っているからである。
 俺王国も代を重ねるごとに民族が違うという環境に慣れていって、差別や階層固定が現れるのではないか、という疑問が湧くだろうが、それは無用な心配である。
マイナー言語かつ日本語の持つ特殊性、すなわち一言で色んなモノを表せるこのノリこそが、日本人を日本人たらしめているものである。
日本語は他のどんな言語とも互換性がない。文法が近いのは朝鮮語であるが、朝鮮語は語彙が全く別物なのでやはり互換性がない。
同じ文字を使う中国語は表意文字で、発音の発想が表音文字とは全く異なるのでこれもありえない。そしてこの二つの言語には創造性がない。
ノーベル科学賞を受賞したどこかの教授が言うには、自分達の言語でモノを考えることこそが、他にはない発想を産み、日本語というのはこの点で非常に優れているのだそうだ。
 日本語の特殊性を理解しやすいのはコメディー、コント、漫才、落語、漫画等であろう。他の国のそれらとは全く異質なのである。
つまり俺王国が言語に日本語を使う限り、多民族主義が失敗することはない。自分達の言語が他と異質であると理解している限り、俺王国の民は俺王国民だと自覚する。
もっと言うと急進的イスラム教徒で、日本語を使うのが俺王国民なのである。この価値観のオリジナリティーはなかなか崩せない。
同じようなマイナー言語でタイ語、ビルマ語など色んな言語があるが、どれも実は多民族言語である。純粋だったのは満州語などだろうが、今はもう消滅してしまっている。
 たまに聞く言葉で「俺(私)~~な人だから」というものがある。用途としては主に言い訳であるが、こんなものが言い訳になると思っているヤツは人間としてのレベルが低い。ただの我侭である。
 そもそも~~な人だから、というのは自分で決めることではなく他人から決められることであり、またそれを許容するかどうかを決めるのも他人である。~~な人だから、という文章は正確には「~~な人だから、まあしょうがないか」「~~な人だから諦めろ」と締めるものである。許容できない場合は「アイツふざけんな!」という評価が下される。正直言って許容されるのはごく一部のズバ抜けた能力を持っている人(だらしない性格だが出場すれば確実にゴールを決められるフットボールプレイヤー、必ず問題解決できるプログラマなど)だけであり、殆どの人間はアイツふざけんな!で終わりである。
 これを自分で言っている人間はもし私が「俺~~な人だからって言ってる人を見るとぶん殴る人だから」と言ったら素直に殴られてくれるのだろうか。または「俺むかつくヤツ見ると殴っちゃう人だからさ」と言えば殴らせてくれるのだろうか。