» 宗教のブログ記事

 どっかの神学者が言った言葉なのだろうが、信仰とは希望である。信仰という宗教チックでアレルギーを起こしやすい人のためにあえて言い換えると希望を持つことが救いになるのである。

 信仰をすることによってリターンとしての救いがあるのではなく、信仰することそのものが救いなのである。希望も同じである。希望を持てばリターンが返ってくるのではなく、希望を持つこと自体が救いになるのである。

 今日より明日が良いものになると希望を持つことそのものが救いになるのである。希望を持っているということは何よりも幸福なことなのである。
その希望が実現できるかどうかが大事なのではない。希望を持つことが大事なのである。

・仕事で悩んでいる貴方。今よりもっといい職場があると希望を持つことが救いになるのです。

・恋愛で悩んでいる貴女、今よりもっといい異性が現れると希望を持つことが救いになるのです。

・怪我や病気で悩んでいる貴方、必ず回復に向かうと希望を持つことが救いになるのです。

大事なのは信じる事。これが信仰の救いです。

 

 人間は物事を判断する時、最終的には3つの基準の中で自分が一番重視しているものを拠り所とする。
その3つとは

1 気持ち良いか良くないか
2 正しいか正しくないか
3 自分にとって損か得か

 この三者はそれぞれが違う方向に向かって進んでおり、重なる部分もあるが、三者が複合的に判断される事は決してない。人間は最後、必ずどれか一つを拠り所として判断を行う。

1 気持ち良いか良くないか

これは限りなく原始的で本能に近い判断基準である。自然が豊かで、人間が難なく暮らしていける環境ではこの判断基準を重視する人が多い文化が形成される傾向がある。古来日本もこのタイプであった。この判断基準を最終的に心の拠り所にする人間は良く言えば無垢で素朴、悪く言えば自堕落で動物的と言えよう。

2 正しいか正しくないか

主に一神教文化圏で見られる判断基準である。一神教では唯一神のみが正悪を決定するため、正しい選択肢というものが一つしか存在しない。そしてその神の決めた善悪に沿って行動する人間というのは、神に近づきたがっているとも言える。この判断基準を最終的に心の拠り所とする人間は潔癖症で完璧主義者が多い。

3 自分にとって損か得か

重商主義帝国で出来た判断基準である。中華文明圏では古代より国家=大商社であったので、この判断基準を重視する人が多い文化が作り上げられた。近世に入り、西欧諸国でも重商主義国家が現れ、このような価値観を持つ人々が増えた。この判断基準を最終的に心の拠り所とする人間は、手段と目的が逆転しており、機械のように生きることを美徳とする人が多い。

 まずは自分がどのタイプなのか見極めることが大事である。そして、自分の周りの人間がどのタイプなのかも考えてみよう。気の合う人間というのは絶対に同じタイプである。反対に違うタイプの人間と気が合うことは決してない。

 

自己の感情を愛せた時に他ならない。

 

 

さて、これだけじゃなんなので補足説明

例えば綺麗な海を見たとき、

ああ、綺麗だなあ、と思う

ああ、綺麗だなあと思っている自分の感情自体をとても素敵だと思う

この瞬間に幸せを感じているということ。要するに実は二段構造になっている。我々は普段それには気付いていない。

だから一見負に見えること例えば

ボッコボコにぶん殴られて痛みを感じる

痛みを感じている自分の感情を、生きてるって実感して素晴らしいと思う

こういうふうに幸せを感じることもある。

どんな感情ですらそれを愛していることがわかればそれは幸せになる。 

「愛すべき感情と愛せない感情が存在する」

のではなく

「その感情を愛するか愛さないかは自分次第」だということだ。

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