漫画を書く時、最初にキャラクターの彫刻みたいなものを作っておけば、どんな角度の顔も描写するだけで良いのだから、とてつもなくうまく描けるのではないか?
漫画を書く時、最初にキャラクターの彫刻みたいなものを作っておけば、どんな角度の顔も描写するだけで良いのだから、とてつもなくうまく描けるのではないか?
前回のエントリhttp://www.uchidatakahiro.com/otaku/20060521_7.html からの続き。
俺がオタク道へ興味を示したのを察したのか、友人のハイパーオタクが俺に連絡を取ってきた。
彼は言う。
「内田君さ、いつもドラッグはダメ絶対とか言う人は真実が見えてないとか言ってるじゃん。自分で試した事もないのに批判するのは馬鹿のやる事だし、他人の受け売りで非難するなんて薄っぺらいってさ。でも内田君がオタクに関して言ってる事も同じだよね。試しもしないのに拒絶反応を起こしてるよね。それって内田君が言う思考の停止と何が違うの?」
なぁぁあにぃいいい!言ってくれるじゃねえか。そう思った俺はこう言った。
「よし。わかった。俺が間違っていた。今すぐお前の家に行くぞ。お前のおススメのアニメ20本とエロゲー3本貸せ。」
そういうわけで俺は今アニメを見まくっているわけである。13話を1クールと呼ぶなんて余計な知識をつけ、オタ道まっしぐらである。
だがしかし、程度の差はあれどのアニメも見終わると欝になるのだ。
どんな内容でもだ。
すなわち、内容に関係なく「何か」が原因となって欝になっているのである。
俺はドラマも映画も漫画も小説も全く見ない人間である。なぜ俺がこれらを見ないのか、それらもこの「何か」が共通の原因となっているであろうという仮説を立てた。共通項はなんであろうか。それを解明することで、この「何か」の正体がわかるはずだ。
例えばおよそ現実とは程遠いアニメがある。独特の世界を構築し、独特のルールがある。およそ我々が生きている日常とは程遠い全くの別世界である。そしてアニメが完結した瞬間に、俺はその世界からほっぽり出される。その世界はパラレルワールドもしくはロストワールドとなり、俺はシャットアウトされてしまう。あるのはただ現実のみであり、その世界に立ち戻ることは永久にできない。その世界の時計はそこで止まり、自分の時計は進み続けることになる。
現実とは程遠くない世界観のアニメであろうと、同じことである。アニメが完結した瞬間、俺はそこから放り出される。キャストたちと同じ時間を共有することは二度と出来ない。
映画、ドラマ、漫画、小説も同じである。ひとつの話が終わった瞬間、その世界から俺はひとり取り残される。二度と戻ることはできない。それぞれの作品たちはそれらの世界にまるで写真のように、時間に封をしたものなのだ。それを見ている瞬間だけ俺はその世界の住人になれ、同じ時間を共有できるが、完結した瞬間に「お前は違うんだよ」という事実を叩きつけられるのだ。
このように自分ひとりが取り残される切なさが、「何か」の正体である。同時にまた、時間がそこでストップしてしまう不気味さ、悲しさも「何か」の正体である。映画、漫画、ドラマ、アニメのアフターストーリーを書きたがる輩がいることはこれを如実に物語っている。そうすることによって、自分が取り残されることもなく、また、その世界の時計を進ませることが出来るからである。
では現実はどうであろうか。
現実は自分が死なない限り止まらない。時間は動き続けるのである。皆が同じ時間を共有しているのだ。自分ひとり取り残されることも、時間に封をすることもない。パラレルワールドとして展開することもない。ここに悲しみは存在しない。
ちなみに俺は映画、漫画、小説の歴史物(史実)だけは昔から見ている。今思えば、歴史物(史実)は最初から終わった事実として現実に存在しているから抵抗なく見ることが出来ていたのだなあ、と思うのである。史実があるからこそ自分が存在する。そう、史実だけは、自分の時間とつながっているからだ。
何はともあれ、俺は割り切るということが出来ない精神的に脆い人間なんだなあと再認識した。
後輩とMSNでチャットをしつつyoutubeを漁っていたら、外人オタク(日本のアニメが好きなアニオタ)の動画がいっぱい出てきた。
奴らはとても楽しそうであった。彼らの聖地である秋葉ではしゃぎまくっていた。「萌え~」がキーワードである。そう、今やオタク文化は萌え文化なのである。ある時、秋葉のホコ天でストリートライブが行われており、そこの観客が見事にハジケまくっているのを見て私はこう思った。「なんだこれ・・・渋谷あたりのクラブで死んだ魚みたいな顔して踊ってるギャルより全然ノレてんじゃん。」そして極めつけは、朝のニュースに「萌え」という単語が出てきた時である。
私はこの自国の文化を楽しんでいない自分がとても損をしている気分になった。私はオタクアレルギーであり、オタク文化にはなるべく触れないようにしていたのだが、何が彼らをそこまで駆り立てるのか、そしてなぜ日本が総オタク化しているのか、興味がわいた。
と、なると我々もオタク文化を体験してみなければ、その答えは出まい。オタク文化のフラッグシップと言えばエロゲーである。エロゲーをやるしかない!と思って、後輩にとりあえずやらせてみた。
感想「むかつくだけです。飽きました。」
うーん、これはおかしい。なぜ皆そんなむかつくものにハマっているのだろうか。これは、ゲームの選択が悪かったのではなかろうか。そう思った私は、友人のY君が昔言っていたフレーズを思い出した。
「エロゲーにはいろいろ種類があって、抜きゲー、萌えゲー、泣きゲー云々」
よし、さっそくY君に相談だ!!
相談した結果、どうやら中にやらせたのは抜きゲーというジャンルのものらしく、これに「萌え」は存在しないらしい。これではダメだ。完全に履き違えている。我々の目的はエロゲーを研究することではなく、「萌え」を理解することだ。エロゲー研究はあくまでその手段なのだ。手段と目的を履き違えてはならない。
では「萌え」を理解するには何がいいのかとY君に聞いたところ、「to heart2」という王道ゲームがいいと言う。さっそく検索だ!!
http://www.aquaplus.co.jp/th2/
http://leaf.aquaplus.co.jp/product/th2x/
↑ホームページ
いきなり目に飛び込んでくるありえないほど頭がデカい女の子たちにちょっと抵抗を覚えたが、お祭り人間の私はとりあえずMSNで後輩とY君に「誰が好みか決めよう!」と、バカな提案をしてみた。こうして選んでいるうちにだんだんと面白くなってきた。とは言え、この時点では半分バカにしている。所詮現実ではないし、ありえねーなこのキャラは、と。
うーんとりあえず今見れるコンテンツで何かないかな、とyoutubeをあさると動画があった。
なんとアニメ放映までしているらしい。すごいなオタク文化。完全に一般化してるよ。エロゲーなのに。
アニメを見て驚いた。
・・・・ふつーに面白い。
時々オタ受けを狙った電波じみたセリフを吐く女キャラにむかつきと違和感を覚えるが、これは普通に面白い。
見ているとなぜかほほえましく、ニヤけてしまう。
う~ん、これが萌え、か・・・・だんだん理解してきたぞ。
どうやら萌え、は外見ではないようだ。
なぜ面白いのか、ちょっと分析してみた。
・キャラクターに金や権力、見栄といった打算がほとんどない
・嫉妬もない
・皆純粋で単純である
・とても平和である
・絵に描いたような理想の学園生活である。
なるほど、不況の現代の人間たちとはまるで反対なわけである。そうだ。こいつらは桃源郷の住人なのだ。つまり、現実の薄汚れた部分が全くなく、理想の世界なのだ。これを見ることは強烈な現実逃避の麻薬であると理解した。
同時に、エロゲーにおけるエロ描写についても少し憶測を働かせてみた。思うにエロ描写は、まるで恋愛小説、ドラマの塗れ場のような存在であって、決してエロがメインになっているわけではないのである。おそらくこれで抜けと言われても無理だろう。。あくまで愛の物語の、エッセンスなのであろう。
まだゲームはやってないけど。
だがしかし、私は桃源郷の物語よりも、泥臭く生臭い人間の物語のほうが好きなので、オタクになるのは難しいのではないかとも思った。