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 内田貴洋王国/宗教はベイシック・インカムを標準装備する。

 内田貴洋王国/宗教の目指す理念は「万人が幸福になる機会を平等に有する社会」である。これだけ聞くとレーニン主義のようであるが、内田貴洋は所得格差を認めている。金持ちには金持ちの苦労があり、貧乏人には貧乏人の苦労があるのと同様に、幸福値もハピネスの法則によって金持ちと貧乏人では異なるからだ。

 かといって経済的にゼロの人間が幸福になる機会が多いかというと、それは嘘である。経済的にゼロの状態は現代社会ではマイナスを意味する。毎日生きるために精一杯では幸福の追求など考える時間もない。最低限の経済力がないと人間は幸福になる事が出来ない。最低限の経済力がない人間は金銭の奴隷となる。それは最早、身分の差(カースト)となってしまう。内田貴洋はこの実質的な階級差を認めない。この経済的奴隷身分の存在は徹底的に改善する必要がある。

 内田貴洋の王国/宗教の共同体はイスラームに習って「ウンマ」と呼ぶことにする。このウンマ(共同体)には当然税金が発生する。内田貴洋はウンマ(共同体)から集めた税金の一部を、無償でウンマ(共同体)全員に再分配する。つまりベイシック・インカムである。これはムハンマドが提唱した富の再分配と何ら変わることはない。この思想自体はイギリスで生まれたものだが、根底にはイスラームのワクフ(寄進)と同じ発想が見られる。但しベイシック・インカムはワクフとは違い、半強制的である。金持ちほど多くのワクフを行うことになるが、これは上で述べた金持ちには金持ちの苦労がある、という部分に該当するので、「万人が幸福になる機会を平等に有する社会」という理念と矛盾する事はない。

 内田貴洋の王国/宗教で特徴的なのは、このベイシック・インカムを享受できる権利がすべての人間に存在するわけではない、という事だ。ベイシック・インカム受給者は次の条件を満たしていなければならない。
・両親が共に成人権を持つ親の子である事
・嫡出子である事。
・片親が外国人の場合、その外国人が成人権試験に受からない限り、無効。

以上。

 

 すべてを見通す内田貴洋は完全無欠で合理的な宗教作りに乗り出す。

 内田貴洋が考える理想の宗教とは、万人に幸福を得る機会が均等に与えられる世界の秩序を作り出すことが出来る宗教である。内田貴洋は幸福値というものに絶対的価値を置く。すなわち物質的裕福さがそのまま精神的裕福さにはなりえないという考えだ。これはどの宗教でも見られる事である。多くの宗教はこの世とあの世を分離し、精神と肉体の分離を説くことによって物質的なものと精神的なものを分けようとする。だがしかし内田貴洋の宗教は合理主義を目指す。よって物質的裕福さもある程度幸福値に影響を与えるものと考える。反対に精神性、これを極める事はそれ即ち幸福値を上げることになるが、行き過ぎた精神的裕福さの追求は時として他者からの暴力の前に屈してしまうとする。内田貴洋の宗教は戦う宗教だ。内田貴洋の教えは人類の未来を作る。人々は内田貴洋の教えを後世に伝えるために戦わねばならない。己の脳に刻まれた内田貴洋の宗教という財産を、暴力という手段によって奪われてはならない。暴力の前に屈することはこの素晴らしき教えに対する冒涜だ。内田貴洋は宗教的弾圧には武器を持って立ち上がれと教える。内田貴洋は暴力を否定しない。何故なら暴力こそが、人類の繁栄を永続させる最終保障であるからだ。

 内田貴洋が何を以って幸福値とするか、これを現代科学で言うならば、脳内麻薬分泌量である。内田貴洋の宗教は科学をも取り込む。ただし、この脳内麻薬は多ければ多いほど良いというわけではない。自分でコントロールできるかどうかが大事なのである。アドレナリンで抑えが利かなくなって人を殺す、エンドルフィンの出しすぎで他に何も出来なくなる。これらは幸福とは言わない。大脳新皮質の理性によってこれらをコントロールできて初めて幸福値という基準を設けて良い事となる。内田貴洋は外因的要素でこれらの脳内麻薬を抑制したり活性化させる事を推奨する。例えそれが直接麻薬物質を自己に投与よるものであってもだ。ただし、ナチュラルでコントロールできる状態がベストであり、薬物に頼るのは幸福値を下げる事になる。薬物は物質であり、物質に依存するのはもしその物質が無くなったらどうしよう、という不安すなわちストレスを頭の片隅に抱え込むことになるからだ。ストレスがあると脳内麻薬の総出量も減るし、コントロールも容易ではなくなる。

 内田貴洋が現存する宗教で最も合理的だと思うのはイスラム教である。しかしイスラム教にはいくつか欠点がある。預言者ムハンマドはクルアーンを絶対唯一不可変の神の言葉とした。クルアーンは聖書をベースに作られている。まずここに問題がある。ムハンマドは確かに天才だが、結局ユダヤ教をベースにしているため、無理がある箇所がいくつかある。内田貴洋は進化論や遺伝子論によって自己の理念を理論武装しようと考えているため、進化論を否定するような創造主の存在を認めることはできない。また世界は移り変わるものであり、暴力によって正当なものが捻じ曲がったものに滅ぼされる事もある。一時の栄華でも見逃してはならない。この世はやるかやられるかだ。

 次回に続く。

 

 とは今日、とある人に物事を丁寧に教えていたら言われた言葉。
 僕が逆に聞きたい。
「人に善行を施すのにいちいち理由がいるんですか?」

 おそらく彼は、自分に利益があると判断しないと他人に善行を施さないのだろう。可哀相な人だ。
 人間は同化本能を持っている。僕はその本能に従って行動しているだけ。そしてその社会的本質的欲求を満たしているだけだ。

 彼はおそらく僕の十分の一くらいしか人生を楽しめていないだろうなあ。

 閉じてる人間の世界は閉じる。開いている人間の世界は開く。

 

 何もしない、という行為は存在しない。
「何もしない」をしている、ということである。

これが相対的な関係において為される場合、それはマイナスの意味を持つ。

つまり「我関せず」などという単語は存在しないのだ。
これの実質的な意味は、「我害為す。」である。

 

自己の感情を愛せた時に他ならない。

 

 

さて、これだけじゃなんなので補足説明

例えば綺麗な海を見たとき、

ああ、綺麗だなあ、と思う

ああ、綺麗だなあと思っている自分の感情自体をとても素敵だと思う

この瞬間に幸せを感じているということ。要するに実は二段構造になっている。我々は普段それには気付いていない。

だから一見負に見えること例えば

ボッコボコにぶん殴られて痛みを感じる

痛みを感じている自分の感情を、生きてるって実感して素晴らしいと思う

こういうふうに幸せを感じることもある。

どんな感情ですらそれを愛していることがわかればそれは幸せになる。 

「愛すべき感情と愛せない感情が存在する」

のではなく

「その感情を愛するか愛さないかは自分次第」だということだ。

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