少し前の日本で、中学校の清掃を自分達でやるか、業者に任せるかというのが話題になった。自分達でやれ派は清掃も教育の一環である、という理由であり、業者派の主張としては、「清掃の仕方なんて他で学べる」「学生が掃除して綺麗になるわけがない」という類のものであった。だが、問題は清掃の効果そのものではないのだ。
実はこの内田貴洋の中学校はインターナショナルであり、清掃は業者が行っていた。そこで生徒はどのような振る舞いをするかと言うと、ゴミは散らかし放題、消火器は毎日ぶちまける、トイレの蓋の上に糞をする、トイレットペーパー投げあい合戦、など散々なものであった。何故このような事をするのか、答えは簡単である。自分達が清掃しないのだから、いくら汚そうが気にならないのだ。また、業者が完璧に清掃するため、どんなに汚くしても翌日には綺麗になっている。だからどこまでも汚して平気だと思っていたのだ。
これが自分達で清掃する羽目になっていたらどうだろうか。自分達で汚せば汚すだけ自分達にツケが回ってくる。なのでなるべく汚さないようにしようとする。実は教育云々ではなく、この事実のみが大事なのである。似たような例として自宅で食事するのと、外食との差を考えてみてほしい。自宅の食事はなるべく洗い物が出ないように工夫したりするが、外食ともなると食器を灰皿にしたり遣りたい放題である。食器を洗う苦労をわかっている人でも、このような事をする。つまり大事なのは自分達で後始末をしなければならないという事実であって、掃除の仕方を学ぶだの、清掃する立場の視点を持つだのではないのである。
アジアの都市によくある屋台を想像してほしい。残飯や調味料の残り、食器を洗った水など路上にぶちまけて帰っていく。これも、自分で掃除をしないからやる所業なのである。ロンドンの裏路地や新橋の横丁が小便まみれなのも同じ理由である。個々は掃除の大変さを理解しているはずなのに、やってしまう。ツケが自分に回ってこないからだ。
以上の点を踏まえて、内田貴洋王国では清掃を義務とする。清掃地域を割り振り、週に1回そこを清掃させる。清掃担当は居住地区ごとにグループが割り当てられる。例えばA町1丁目のグループはA町の公園、2丁目のグループはA町の公衆トイレ、などといった具合である。この清掃グループは地域の交流と、性別、人種、年齢を超えたコミュニケーション能力の育成をサポートすることにもなる。清掃グループは半年ごとに組みなおされ、担当も変えられる。
地域グループワークを行うことによって地域に愛着心を湧かせることと、その土地を汚さないよう振舞う習慣を根付かせるのが、この清掃義務の狙いである。また、よそ者が来てすき放題散らかしていった場合、前述の決闘が地域住民とよそ者の間で行われる事になる。尚、内田貴洋王国の国民の義務に、労働は入っていない。以上内田貴洋の理想の王国。