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価格競争、業界にとって最も忌むべきものである。価格競争が始まるとまず落としやすい人件費からコストダウンを図る。企業間、商店間はまず人的体力勝負を強いられる。疲弊した人材はいつかはパンクする。

 次に行われるのはクオリティーを低下させることによるコストダウンである。工程を省いたり、用いる材料の量や質を落とすことによって値段を落とす。結果として徐々に商材の価値が落ちていく。

 最終的には取り込み詐欺、計画倒産を行う企業、業者が出てくる。過酷な価格競争で失った利潤を短期的に回収し、もうその業界からは撤退してしまおうという戦略である。

 価格競争は消費者にとって、短期的利益をもたらすが、長期的に見ると消費者も損をするのである。商材やサービスの質が低下し、信頼性も低くなる。良いことなどひとつもないのだ。

 だがいつの時代もダンピング業者というのはいるもので、必ず価格競争を開始する馬鹿がいる。これは売春や泥棒と同じで人間社会に必ず現れる人災の一つである。

 大手家電量販店などで、他店よりも高ければ申しつけ下さい、などと言ってチラシの表示価格競争を盛んにやっているが、あれは実に愚かな競争である。このような事を始めたのは新宿発のカメラ業者と、茨城発の郊外型大型店舗である。

 昔からこの価格競争の愚かさを知っていた秋葉の家電屋などは値切り文化を採用し、表だって競争することを避けることで、自分達の利益を守ってきた。値切り文化とは価格競争からうまく逃げるためのツールだったのである。消費者と業者、お互いの利益を守るための必須手段だったのである。

 しかし愚かな一部の業者と、目先の利益に飛びつく愚かな消費者によってこの値切り文化は失われ、価格競争が表面化してしまった。今やいろんな業界でこの価格競争が起きている。そしてそれは世界的なムーブメントとなってしまっている。いわゆる資本主義の終焉の要因のひとつである。

 都会と田舎の人間は明らかに性格が異なる。これは田舎と都会で人物を評価するポイントが異なるためである。

 田舎というのは何もない場所である。何もないということは、何か物事を達成する時に、創造性が求められる。例えば移動ひとつとってみても、移動距離と燃料を計算し、行く先々の燃料補給場所、タイミングなどを先読みしていかなければならない。但し、行く手を阻むものは何もなく、行動ルートは自由である。

反対に都会というのは何もがある場所である。何もがあるということは、何か物事を達成する時に、規範に対する同調性が求められる。移動の例で言うと、あちこちに人やモノがあるので移動距離や燃料を計算する必要はない。タイミングも計る必要がない。すべてもう出来上がっているからだ。しかし、他人の邪魔になることを避けなければ、衝突は必至になる。なので決められた規範に従うことが最重視されるのである。

 つまり田舎と都会は、必要とされる人物像が全く異なるのである。田舎はどれだけ先読みをして行動するかが評価され、都会はどれだけ人の邪魔をしないように行動しないか、が評価されるのである。あの手この手を模索して行動する人間は都会では邪魔者として煙たがられ、田舎では重宝される。反対に何もしないで他人の指示をじっと待つ人間は都会では優等として重宝されるが、田舎ではトロい人間として相手にされないのである。

 実はこの何もしない、という事こそ、いわゆる「洗練された」人であり、言い換えるならよく訓練された人、なのである。都会には様々なルールが存在し、そのルールに従うためにはまず第一に自我を捨ててルール自体とその目的について学ぶ必要がある。だから都会人は初動が必ず受身なのである。何をしたいか、よりも、どうすれば非難されないか、が先に来るのである。これは田舎人の創造性とは間逆である。

 田舎人は自分のしたいことを決め、物事を先読みし、計画を立てて遂行する。創造的である。都会人は自分がルール違反にならないように振る舞い、その場の状況にいかにうまく対応するかを考える。模倣的なのである。

  何かをしまくる人間と、全く何もしない人間。どちらか片方に極端に傾いている性質の人間がいた場合、田舎では何もしない人間はノロまとして淘汰され、都会では何かをしまくる人間が問題児として淘汰される。こうして田舎人と都会人は対極の性質を帯びるようになる。しかしこの両者の性格は同時に存在できない物ではない。創造的かつ、洗練性を持つような人間はどの社会でも高い評価を得られるであろう。どちらか片方で自分が評価されないからといって決して腐らないことである。以上内田貴洋の素晴らしき人間分析論。

 

 

 女の生き方は二通りある。愛人タイプと本妻タイプである。もちろん男にもあるのだが、現代では男を養う女など皆無なので男の愛人タイプは絶滅した。日本だけでなくどこの国でもこの男愛人はいたようである。主に貴族階級に飼われる事が多かったようである。

 さて、翻って現代日本を見てみよう。現代日本の女の大多数の夢の一生とは、色んな男と知り合って、色んなモノを買ってもらって、沢山セックスもして、色んなタイプの恋を経験する事、である。ブランド物に身を包み、コスメやネイル、アクセサリーで自分を飾り立てる。もちろんエステも欠かさない。いかにしてかわいく男に甘えるかの技術を磨き、いかにして男を落とすかを競い合う。勉強など全くしない。自分がいろんな男を渡り歩く様を、蝶が花を渡り歩く様になぞらえて自己陶酔したりしている。まるでファッションモデルの世界を模倣しているかのようだ。

 が、しかしこれは愛人の生き方である。こんなふざけた生き方をしてきた女を一生養ってやろうなんて危篤な男はまずいない。男は結婚相手には本妻型の生き方をしてきた女を選ぶ。すなわち、勤勉に自活できる能力を身につけ、母になる努力を怠らなかった女である。本妻型の生き方をしてきた女は世の中の現実というモノをよく知っているので、地に足のついた考え方をしている。

 問題は愛人型である。古来の日本なら、愛人型の生き方をしてきた女でも妾というポジションに甘んじることで、なんとか生活をすることが出来た。しかし現代社会では性風俗の充実等により、妾そのものに価値が全くなくなってしまった。性を安売りする女が次々と出てきてしまったせいで、女の性という限りある資源を女全員で奪い合っている状態だ。まさに女の敵は女。ビッチの敵もビッチである。

 さらに信じられない事は、愛人型の生き方をしてきた女が、自分が将来本妻型の生き方が出来ると勘違いしちゃっている点である。残念ながら世の中そんなに甘くない。君達が憧れてきたライフスタイル:ファッションによるヒエラルキー決め、男に貢いでもらった金額の自慢大会、自由奔放で一人の男に縛られない生き方、それは西欧のモデル業界、すなわち愛人型女社会なのである。日本人の馬鹿ビッチスイーツは愛人型社会の都合のいい部分だけしか見ていないが、愛人型社会には愛人型社会の厳しさがある。

 愛人型社会はまず、保障がない。いくら良いパトロンがつこうと、そいつの気分次第で即切られる。或いは、他にいい女がいたらパトロンはあっさりと裏切ってそっちへ行く。もとから本妻型社会のような契約社会でもないので、それは当然の事。お互いに相手を縛る権利などない。それがわかっていないから日本人のキャバクラ女は「人の客寝取りやがって!」なんてロッカールームで殴り合いの喧嘩をしたりしているわけである。また愛人型社会は、その美貌という刹那的な魅力のみで成り立っている。日本人がいくらがんばってもそんなに美しくないよ!という議論はおいておいて、美貌というのは実際問題限りがある。

 どんな美女でも23を過ぎると劣化を隠しきれなくなるのだ。よって愛人型の生き方を選択した(おそらく殆どの女は流行に流されて知らず知らずのうちに選択してるのであろうが)ら、22歳までにマンションを買ってもらわなければTHE ENDである。マンションを買ってもらい、パトロンから捨てられたらそれを賃貸に出して自分がボロアパートで生活するのだ。子供を持つことも許されず、過去の栄光に縛られてひっそりと暮らすのである。若い頃に努力もしないで散々いい思いをしたのだから、それは当然の報いである。人生はそんなに甘くない。

 その昔、性を売る商売は将来の自分から借金をしているようなものだ、と聞いて妙に納得した覚えがあるが、性の売り方は何も水商売だけではなく、普通の交際においても起きている事象なんだなと再認識した。
 今現在モテてる私すごい!とか思っちゃってる人は愛人型人生を選ぶが本妻型人生を選ぶか、よく考えることである。ちなみに一度愛人型人生を選んだら(乗り換えを行ったら)もう二度と本妻型人生には戻れない。

 無知とは恐ろしいものだ。今の40~20歳くらいの殆どすべての女は、自分らがモデルとしてきた生き方が愛人型であるという自覚がない。マスコミの罪は重い。尤も私には、マスコミ連中が愛人を作りたくてこのようにメディアを悪用したとしか思えないのだが・・・

 子供達は何故か親や教師といった身近な大人を反面教師にするものだ。

 大人が勧めるモノはダサい!親や教師が勧めたモノは軒並み仲間内で却下され、親や教師の言いつけを守ってる奴は仲間はずれにされる。この日記を読んでいる皆さんもそんな経験があるのではなかろうか。

 サウスパークというアメリカの有名な社会風刺アニメがある。そのサウスパーク村でポケモンが流行り過ぎてどうしようもなくなった時、大人達が思いついた解決策が皆でポケモンをやる、という手段だった。大人達が勧めだした途端、子供達はポケモンを破棄したのだった。

 さてこのような「反面教師」現象は日本でもはっきりと形になって現れている。一番わかりやすい例が同和問題である。

 関西に住んでる人は信じられないだろうが、生活上東京では部落差別はほとんどといっていいほどない。若い世代は部落の存在すら知らない。この私も18歳になってから初めてその存在を知ったのだ。

 逆に関西では部落差別をやめよう、と子供の頃から教えこまれる。皮肉にもこれが反面教師効果を生み、未だに部落差別が根強く残っている。結局人間の良心に期待する教育なんてなんの効果もないということだ。(典型的な例がカトリック)

 さて現代日本はいよいよ格差社会に突入する。持つものがより多くを持ち、持たざるものはどんどん失う社会になっていく。こんな中で教育のあり方に疑問を持つ人も増えていくだろう。いや、実際現在の教育が失敗したから今の日本人のモラルがこんなにも低下しているのではなかろうか。

 そこで私は提案したい。大人達が今までと180度方向を変えて、「みんな一緒じゃないよ。君と他の人はこんなに差があるんだよ。平等じゃないんだよ。」と教えこむのである。「みんな平等!誰もが一番!」なんて教えてるからいじめが起こるわけである。
「手をつないで一列でゴール!」なんてことはせずに敗者を徹底的にいじめまくってこき下ろす。さてこれをやったら日本人のメンタルはどう変わるのであろうか。楽しみである。
 

 まあ、今日も釣れなかったんですけどね。

 もし貴方が人生のパートナー選びに迷った時は釣りに連れていくといい。釣りというものは性格が非常によく出るものだ。ちなみに今日一緒に行った奴は俺と一緒に行くのが2回目のくせに、未だにリールの使い方、投げる方法、仕掛けの作り方、釣り糸の結び方さえ知らなかった。俺が仕掛け作って投げて、彼はひたすら待つだけだ。一体何が楽しいのだろうか。釣りに行きたいと言い出したのは彼なのに先に諦めてるし。初心者の女を釣りに連れて行くより疲れた。そう、彼の地は超あまったれだったのである。もう彼とは二度と行かない。

以下、釣りの手順と併せて説明したい。

1 釣り場と釣るものを決める。

・堅実にいくか大物狙いか→派手好きな人は大物狙いに。
・釣る前から食べる事を考えている奴→打算的でセコい。
・事前に綿密に調べるタイプ→用意周到で計画的。
・行ってから考えるタイプ→フットワークが軽いが破滅しやすい。
・数箇所ポイント候補を挙げるタイプ→なかなか用心深い。
・人に聞いた事しかしない奴→チキン
・場所優先→協調性があって柔軟
・獲物優先→破天荒タイプ(ちゃんと破天荒の意味調べてね)

2 釣り場へ行く。

・納得いくポイントに当たるまで探し続ける奴→ドリーマー
・エントリのしやすさでポイントを選ぶ奴→めんどくさがり
・実績でポイントを選ぶ奴→堅実
・人が居る所に行く奴→前へ習えさん
・立ち入り禁止場所に行く奴→法規モラルがない
・魚の見える場所へ行く奴→ミーハー
・先人に挨拶してまわる奴→社交性が非常に高いです

3 釣る

・場所をころころ変える奴→視野が広い
・仕掛けをころころ変える奴→視点が多い
・ひたすら待つタイプ→他力本願
・むしろボート出す奴→強引さには定評があると思って間違いない。
・投げ出す奴→こういう人は何も達成することが出来ない。
・周り見ないで投げたりコマセ撒く奴→自己中
・お祭りになる人→先を読もうとしない無計画な人

4 釣った魚を・・・

・きちんとシメる奴→量より質を重視する人間
・ほっぽって次いく奴→質より量の人間
・リリースする奴→”走る”ダロォ?
・遊ぶ奴→残虐性を潜めてます
・すぐ食べる奴→動物です

5 釣った後

・ゴミを散らかしていく奴→無責任Z
・釣り場を掃除して帰る人→自己テリトリーが広い人です
・釣具を丁寧にしまう人→モノを大事にします
・どう料理するかばかり考えている奴→おめでたい人です
・釣果報告を真っ先にする人→自己顕示欲が高いです

まあ、こんなところかな。

 笑いは緊張の緩和から生まれる。タイトルどおりである。笑いはタブーから生まれる。
 タブーが多い社会ほど笑いも数多いパターンで生まれるというわけである。日本、イギリス、それからアメリカのジョーク、コメディーというものを見比べていると、アメリカでは人種差別ネタばかりが目立つのがわかる。

 おそらくアメリカという社会はみんなオープンだし、年上、年下みたいな緊張とか、男女間の緊張とか確実に日本よりは社会における緊張が生まれるシチュエーションってもんが少ないからであろう。最も緊張するのが人種ネタであるから、アメリカでは人種ネタから笑いが生まれるのである。

 反対に日本で異常に多いのが、失敗に対する侮蔑の笑いである。日本は失敗に対して緊張が強い。一度失敗したら落第のレッテルを貼られるお国柄が関係しているのか、そして周りがその失敗に対して非常に神経質になるからだろうか。とにかく失敗というものが日本ではタブーになっているのである。

 タブーが笑いを生み出す良い例

Gaki No Tsukai (Brazilian Version)
http://www.youtube.com/watch?v=4veeAkSWSFM
Italian Gaki No Tsukai – Trailer Primo Incontro
http://www.youtube.com/watch?v=LVysOttn5Po
Gaki no Tsukai – Portuguese Version
http://www.youtube.com/watch?v=ap_oJqmFnFE

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