» 人間観察分析のブログ記事

 先日とある漫画を読んでいて、芸術家の才能について考えた。私は才能の正体は学習能力であると思う。より深く洞察し、その感性の表現方法を筋道立てて考えることが出来、それを実戦する方法を模索し実行する。天才というのはこの一連の動きが通常の人間よりも早いのである。

 事実、才能がある人間というのは何をやらせてもそこそこうまい。反対に愚鈍な人間は何をやらせても愚鈍である。これは学習能力こそが才能であるという私の説を証明していると思う。

 また、馬鹿みたいに時間をかければ誰でも良い作品は作れるものである。しかし天才というのは作品を作り上げるスピードが速いのである。参照、参考、推敲、実行、再試行、すべての動作が速い。例えば芸術とはちょっとズレるかもしれないが、料理が最も良い例である。才能のある料理人は手際が良く、作品を作り上げると同時に厨房の掃除も終わっていたりするのである。

 この例でいくと、この料理人は調理と厨房管理という二つの考えの軸を同時進行でこなしている。つまり天才とは頭の使い方が良いわけであって、絶対的な○○の才能、というのはないのである。天才はどんな方向にも才能を発揮するのである。ダヴィンチなどその典型例である。

 ところで、その漫画は音楽の才能の話だったのだが、演奏を伴うものは才能以外に努力が大事であり、努力でカバーできるものが大きい。私が思うに最も才能のみでやってる連中はラッパーである。そして、私がラッパーの中ですべての方向にバランスよく才能を発揮しているのはベタであるが2PACであったと思う。

 2PACといえば、ウォーレンGとその兄であるドクタードレー、スヌープドッグやその従兄弟のネイトドッグ、ダズディリンジャーなどのいわゆるG-FUNKの立役者であるが、2PACだけ頭一つ抜けていたと思う。

 ラップはブレイクビーツであり、サンプリングした音を組み合わせて楽曲を作り、それに韻を踏んだ歌をリズミカルに乗せていく。もちろんぶっつけ本番のアドリブ全快である。こういうところはまさに才能だけの世界であると言える。

 2PACの楽曲の中で私が一番好きなのはAll About You という曲である。この曲、最初はスヌープドッグと競演したのだがあまりにもスヌープの調子が悪く、ネイトドッグでやり直したという経緯がある。つまりこの時点でスヌープドッグはデスロウ面子の中でもちょっと劣るということが判明しているわけで・・・そういえばNOLIMITS移籍の第一弾のアルバムもひどいもんであった。

スヌープドッグバージョン

ネイトドッグバージョン(正規バージョン)

 笑い声を詰めて一拍に乗せてしまうあたりはさすがである。通常はこんなこと思いつかない。ちなみに私が普段トランスばかり聞いているから、トランスしか聞かないと思っている人が多いが、私はもともとはラップが好きだったのである。

 

 ドラッグとアルコール、両者は似ているようで実は内情は異なる。

 アルコールは負ける事が好きな人間がハマるものである。なぜなら人々は理性がアルコールに負けて働かなくなる事を楽しんでいるからだ。そして結果として勝負に、快楽に、怠惰に負けても良いと思っている。またはそれが原因で人生が狂って負け組みになってしまっても良いと思っている。「そんな哀しい話もありさ」というような負けの美学に陶酔できる人間が好む負け犬の遊びがアルコールだ。

  対するドラッグは理性が快楽をコントロールできないとただひたすら恐怖のどん底に突き進むことになる。いわゆるバッドトリップの一種である。恐怖とは未知に対する感情だからだ。快楽もまた未知であれば恐怖になりうるからである。であるからして、徹底的に理性と快楽を戦わせ、理性で快楽を押さえ込むことが出来て初めてドラッグを楽しむことが出来るようになるのだ。つまり勝つことが好きな人、戦うことが好きな人が好むのがドラッグである。

  また逆説的に言うと理性が強い人でないとドラッグはコントロールできず、楽しめない。そしてこのように理性が強い人はドラッグの使用そのものもコントロールできるので、中毒者になる事もない。

 結果をアピールする子供、目にしたことはないだろうか。見て見て僕これこれこうしたよ、私これやったよ、すごいでしょ。とアピールする子供達である。アピールすること自体は悪いことではない。しかし、子供達が親にアピールするというのは少し異常である。このような場合、親は過程を見ていない。

 本来なら親が過程を見ているのが当たり前なのであるから、子供が結果をアピールしようと、「知ってるよ」で終わる話である。しかし親が過程を見ていないと、子供はいかにして自分が結果を達成したか、もしくは過程で努力したかを説明するようになるのである。時としてそれは、嘘つきを育てていく結果に繋がる。

 子供からすると、過程を見ていない親は結果でしか判断しないのだから、どのような過程を使っても、また嘘の結果を伝えても構わないと考えるようになるのである。こうして嘘つきが世の中に増えていく。

 本当に親の愛情というものは子供に見事に現れるもので、適当に面倒を見ているとロクな育ち方をしないのである。

 この日本、そして多くの文化圏で、今最も一般的なのは恋愛結婚である。殆どの場合、男が女にアプローチし、女はそれを取捨選択するという構図が成り立っている。男は女の気を引くために、様々なプレゼントをしたり、サービスを提供したり、心理的なケアをしたり、ドラマティックな演出をしたりする。こうしてうまく女の気を引いた男が、女を獲得し、結婚に至る。

 普遍的なこのモデルの中にこそ重大な欠陥が潜んでいる事に諸君はお気づきであろうか。それは、恋愛が幻想、劇場型の世界であるのに対し、結婚は現実そのものという矛盾である。すなわち、どれだけ幻想世界の劇場に女を引っ張りこめたかが男の勝負になるのに、いざ女がその男と結婚してみると、一気に現実に突き落とされるという欠陥である。結婚したら男は金銭的、労力的にいつまでも幻想世界に女を置いておくわけにもいかず、釣れた女に与える幻想世界劇場の質、量は結婚後どんどん減らしていく事になる。女はそれまで沢山の幻想世界劇場を与えてくれていた男が、その量を減らしていく事に関して「愛が薄れた」と感じるようになる。場合によっては別の幻想世界劇場を与えてくれる男に浮気心を抱くであろう。或いは結婚後も幻想世界劇場を女に与え続ける男がいるかもしれない。だがそのような男はいずれ心労がたたり、その家庭は駄目になる。また、このような過当な恋愛競争に晒された結果、男が必要以上に幻想世界劇場を女に与えてしまい、女側が自分を磨くことをやめてしまうというのも大問題である。

 結局のところ、この恋愛結婚システム自体は無理があるのである。そもそも恋愛の決定権が女にあるが、結婚の決定権が男にあるというパターンが9割以上を占めるこの社会のシステムでは、恋愛と結婚の間に矛盾が生じるのは当たり前なのだ。決定権の推移により、結婚後、男は女に自分の弱さを見せるスタンスが要求され、女はいかにして自分の持っている資本を男に与えられるかというスタンスが要求される。男も女も結婚前と結婚後で正反対のスタンスが求められる事になる。だから結婚前と結婚後でお互いの性格が変わってしまい、破綻する。よってどちらかに決定権を揃えるやり方こそ、無駄がなくスマートに結婚生活に移行できるやり方なのである。

 女→男というアプローチをとる恋愛結婚だったらどうであろう。この場合、恋愛の決定権も結婚の決定権も男が握っているので、これは正しく成立する。女はいかに自分が魅力的か、いかに自分が家庭内で有能か、いかに自分が強い愛を示せるか、を男に提示する。男はそれを取捨選択して好きな女と結婚すれば良い。女が男に与えているものは最初から現実的なものであり、幻想世界劇場ではないので女は結婚前と同じスタンスを家庭内で貫けば良い。先のモデルにあるような、結婚前と結婚後のギャップ、それに伴う心理の変化、浮気心などというトラブルとは無縁である。これが正しい恋愛結婚のあり方である。

 では女に決定権を揃えるやり方は何か、それはお見合いである。女が気に入った男と先に結婚し、結婚後にその男と恋愛する決定権をも握るわけである。このやり方は先の女→男のモデルと比べて、条件を第一に指定するため、後々のトラブルは先の女→男の恋愛結婚モデルよりも格段に少ない。男はいかに自分が経済的、社会的に有能か、強い愛を示せるかを女に掲示し、女はそれを取捨選択する。一見男→女の恋愛モデルと似ているように見えるが、先に結婚という生活の現実が来るため、男が女に幻想世界劇場を与える必要もなく、ギャップは生まれない。

 内田貴洋はこの二つのモデルを推奨する。従来の男→女恋愛結婚は破綻モデルだと断言する。事実、男→女の恋愛結婚をした後、専業主婦で家事分担、だとか、専業主婦で育児分担、だとか、結婚後も優しくお姫様扱いしろだとか、そんな現実が見えてない妻に嫌気が差して離婚したがっている男を大勢知っている。このモデルは良い家庭を作るのには不向きであるから全世界の男は女にアプローチする姿勢を捨てるべきである。以上世界で最も神に近い男、内田貴洋の真理を見通す眼。

 

 少し前の日本で、中学校の清掃を自分達でやるか、業者に任せるかというのが話題になった。自分達でやれ派は清掃も教育の一環である、という理由であり、業者派の主張としては、「清掃の仕方なんて他で学べる」「学生が掃除して綺麗になるわけがない」という類のものであった。だが、問題は清掃の効果そのものではないのだ。

 実はこの内田貴洋の中学校はインターナショナルであり、清掃は業者が行っていた。そこで生徒はどのような振る舞いをするかと言うと、ゴミは散らかし放題、消火器は毎日ぶちまける、トイレの蓋の上に糞をする、トイレットペーパー投げあい合戦、など散々なものであった。何故このような事をするのか、答えは簡単である。自分達が清掃しないのだから、いくら汚そうが気にならないのだ。また、業者が完璧に清掃するため、どんなに汚くしても翌日には綺麗になっている。だからどこまでも汚して平気だと思っていたのだ。

 これが自分達で清掃する羽目になっていたらどうだろうか。自分達で汚せば汚すだけ自分達にツケが回ってくる。なのでなるべく汚さないようにしようとする。実は教育云々ではなく、この事実のみが大事なのである。似たような例として自宅で食事するのと、外食との差を考えてみてほしい。自宅の食事はなるべく洗い物が出ないように工夫したりするが、外食ともなると食器を灰皿にしたり遣りたい放題である。食器を洗う苦労をわかっている人でも、このような事をする。つまり大事なのは自分達で後始末をしなければならないという事実であって、掃除の仕方を学ぶだの、清掃する立場の視点を持つだのではないのである。

 アジアの都市によくある屋台を想像してほしい。残飯や調味料の残り、食器を洗った水など路上にぶちまけて帰っていく。これも、自分で掃除をしないからやる所業なのである。ロンドンの裏路地や新橋の横丁が小便まみれなのも同じ理由である。個々は掃除の大変さを理解しているはずなのに、やってしまう。ツケが自分に回ってこないからだ。

 以上の点を踏まえて、内田貴洋王国では清掃を義務とする。清掃地域を割り振り、週に1回そこを清掃させる。清掃担当は居住地区ごとにグループが割り当てられる。例えばA町1丁目のグループはA町の公園、2丁目のグループはA町の公衆トイレ、などといった具合である。この清掃グループは地域の交流と、性別、人種、年齢を超えたコミュニケーション能力の育成をサポートすることにもなる。清掃グループは半年ごとに組みなおされ、担当も変えられる。

 地域グループワークを行うことによって地域に愛着心を湧かせることと、その土地を汚さないよう振舞う習慣を根付かせるのが、この清掃義務の狙いである。また、よそ者が来てすき放題散らかしていった場合、前述の決闘が地域住民とよそ者の間で行われる事になる。尚、内田貴洋王国の国民の義務に、労働は入っていない。以上内田貴洋の理想の王国。

 生物的な勝利、つまり動物としての本能である遺伝子を後世に伝えられるかどうか。これは多くの人間にとって性成熟が完了した瞬間からの大きな課題である。オスは種をどれだけバラ撒けるかに焦点が当てられがちである。つまり男はどれだけ数をこなせるかが目標になる事が多い。が、ちょっと待ってほしい。これは遺伝というシステムを無視している。

 遺伝というのは基本的には交差遺伝で、男児には母親の遺伝が、女児には父親の遺伝が出るものなのである。これはハーフの人間を見れば明らかである。そして、生物は遺伝子の利益という本能を持つ。すなわち、自分の遺伝子を残す事こそが最も大事で、他者の遺伝子は二の次、という方向性である。この点を踏まえると、旧来の「一家の長たる男児を産ませてこそ一人前の男」といったモデルが実は本能に反している事がわかる。なぜなら男児は母親の遺伝を強く受け継ぐからであり、その男児が息子または娘を設けたところで、自分の遺伝子はほとんど残すことが出来ないからである。つまり真のオスとしての生物的な勝ち組とは、女児を沢山設け、それを生活力のある男と結婚させ、娘に男児を産ませることである。

 「とにかく数を稼いでシングルマザーでも何でもいいから子供を量産する」というアフリカによく見られるモデルもこれにそぐわない。まず男児が生まれた時点で上記のモデルと同じように、遺伝情報は遮断される。また女児が生まれたところで、きちんと教育できなければ売春婦等に落ちぶれて適当な男に孕まされるのがオチである。良き母を持たない娘はほぼ100%に近い確立で堕落するというのも事実である。もしこれらの適当な男に孕ませられた娘が男児を産んでも、その男児はまずまともに育たない。ギャング等に落ちぶれて使い捨ての人生を歩んで路上で死ぬのが関の山である。よって長いスパンで見た場合、このモデルで遺伝情報を後世に伝えきれる可能性は労力の割りに圧倒的に低い。すなわち苦労して良妻を娶り、きちんとした女児を育てるほうが、適当な女を引っ掛けて数をこなすよりも自分の遺伝情報を伝えるのに裂く労力が少ないというわけである。

 世間一般では短い人生、楽しんだモノ勝ちだ、とでも言わんばかりに刹那的な性的関係の数をこなす事ばかりにやっきになっている男を多く見かけるが、果たしてそれは遺伝子を後世に伝える、という本能にそぐうのかどうか、今一度考えてみて欲しい。以上世界で最も神に近い男、内田貴洋が男性諸君へ送る未来への啓示。

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