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 フェミニズムという思想によって男女の性差を無くそうとし、男女間に深い溝が出来ていることはこれまで散々語った。ではこのままジェンダーフリーが加速していくとどうなるのか。世界で最も神に近い男、内田貴洋がこのテーマに挑む!

 まずジェンダーフリーを推奨していくと、旧来の性差に基づいた社会が一番である、と主張するグループ、男社会が至高であると主張するグループ、女社会が至高であると主張するグループ、そしてジェンダーフリーをそのまま推進するグループに分かれる。これらがそれぞれ分裂独立し、世界中の国家というものが今よりももっと複雑な形をとるようになる。さて、ここまでは様々な方が予想した範囲である。現に某漫画などでもこの様子は描かれている。

 内田貴洋はここから更に駒を進める。このそれぞれの世界がどのように成長していくかを啓示する。

★旧来の性差に基づいた社会が一番である、と主張するグループ

 このグループはイスラームである。社会的生産性と、全体的幸福度はこのグループが4グループ中トップになる。1300年もこの社会構造を保っているのだから、今後もこれが揺らぐことはない。

★ジェンダーフリーをそのまま推進するグループ

 このグループはとにかく徹底して男女を意識させるものを排除しようとする。男には女性ホルモンが打たれ、女には男性ホルモンが打たれる。長髪は禁止、服装も統一される。個性はすべて奪い取られ、家庭を持つことは許されない。なぜなら家庭内での役割の差がそのまま性差に繋がるからだ。ありとあらゆる家庭内の機能が外部に委託され、複雑な分業システムが出来上がる。例えば女の子宮を子育てに使うことは許されず、すべて人工授精で人工胎盤で育てられる。子供が家庭に預けられることはなく、すべて公的機関で育てられる。もちろんそれを維持するのは税金なので膨大なコストがかかる。人々は個人で生活をし、生活の上の行動をほとんど外部社会に委ねる事になる。食事は外食、健康管理も外部、精神衛生も外部に見てもらう。現代社会で言うと共産主義圏の人々の精神状態がこれに最も近い。

★男社会が至高であると主張するグループ

 このグループは女に一切権限を与えない。女に文化すら与えない。女は言葉を発しなくても良いとする。つまり人権を与えないのだ。男のみで社会が運営され、女は生まれた時から人間牧場へと放り込まれる。DNA操作によって美女ばかりを生産する人間牧場が出来たりもする。男は金が余ったら適当に牧場に行って女を選んで買い、ペット感覚で家庭で飼う。適当に子供をこしらえて2年程度で子供が乳離れしたらその女は殺してしまう。子供が女児なら牧場へ売り、男児なら自分で育てる。女は正に産む機械としてのみ扱われる事になる。

 そういえばこのような社会は実在したのである。隣の国、中国がそうである。中国は歴史上炊事洗濯家事育児すべて男の仕事である。家庭内で仕事をさせないという事は、裏を返せば何の権力も与えないという事である。この内田貴洋が中国にいた時、周囲の日本人女は「中国の女は楽でいいなー」などとのたまっていたが、物事を深く考えればこのカラクリに気づくはずである。実際中国では、男の浮気率が半端なく、中国男は愛人を作る確立が世界一高い。女が金を稼げなくなれば用なしなので即離婚である。女は子供を産む機械で、夫婦別性なのも女は永遠にその父親の娘という意識から成り立っているものである。纏足という習慣にこの文化が集約されている。女は性愛玩動物扱いだったので何も出来なくても良かったのである。

★女社会が至高であると主張するグループ

 このグループは男には一切権限を与えない。女は気に入った男がいれば恋愛同棲して子供を作り、しばらくしたら飽きて別の男とまた恋愛に陥る。但しこのグループが上記のグループと違うのは、女は頭脳明晰な男の遺伝子が欲しいので言語や文化をきちんと男に教えるという点である。女は容姿の優れた男としか子作りをしないので、自然淘汰でこのグループの人間の美貌は凄まじいものになる。だがしかし、社会としては女がたとえ妊娠中であろうと社会的義務を負うので、生産性はかなり低下する。どんなにつらい時も男に頼ることは出来ず、むしろ反対に男の面倒を見なければならない。またこのグループは他のグループと比べると戦闘能力が著しく低い。

 古代ギリシャ時代の黒海沿岸にアマゾーンと呼ばれる部族があって、そこではこのような女権社会が構成されていたようだ。また、現代でも中国のどっかの少数民族の村は女権社会である。トラック諸島などのミクロネシアにも一部女権社会は残っている。しかしいずれも生産性がひどく悪いので、徐々に社会秩序が変わってしまっているようだ。

 以上内田貴洋の最も神に近い言葉。

 

 今の世の中、魅力的でない女が増えている。それも当然の事で、女はロウティーンの頃から恋愛至上主義のメディアに踊らされ、大事な十代を恋愛というドラッグ遊びに使ってしまうからである。

 しかもタチの悪いことにこのドラッグは依存性がヘロインの10倍くらい強く、一度中毒になってしまうと立ち直るのはなかなか困難である。ほとんどの場合、恋愛して良いレベルまで自己が確立されないまま恋愛をしてしまうため、相手の男に飽きられて捨てられてしまう。捨てられた女はもう恋愛というドラッグの依存性になっているので、新しい恋愛でそのダウンレギュレーションを抑えようとするが、当然耐性や慣れの問題があるので他のドラッグと同じように、ますます過激な質、そして量を追い求めていくようになる。

 こうして二十台半ばには自己というものが何もなく、趣味も特技も金を稼ぐ能力もなくただひたすらひどい男遍歴のみが自慢になっているという最悪な女が出来上がるというわけだ。そして多くは二十台後半で男遍歴というものが唯の汚点で、自慢にも何もならないマイナス要素であるという事実に気付き、絶望へと落とされていく。

 では外国ではどうだろうか。外国に行ったことのある方は女のホームレスが普通にいることにびっくりした経験があるだろう。そう、外国は日本と違って社会が女に甘くない。だからロウティーンの頃からどうやって生きていこうか頑張って画策する。

 結果としてこれなんてエロゲ?みたいなハイパースペックの女が量産されていくわけである。
例えば自己の確立として最も代表的な例であるスポーツ選手を見てみよう。
http://www.uclabruins.com/sports/w-soccer/mtt/ucla-w-soccer-mtt.html

これはアメリカの名門UCLAのサッカーのチームのメンバー表である。名前をクリックすると顔写真が見れる。皆けっこう可愛い。私はこの娘が好みである。
http://www.uclabruins.com/sports/w-soccer/mtt/sweetman_nicole00.html

 話が横道に反れた。日本の場合、女子スポーツ選手は押しなべてブスばかりである。なぜならば可愛い子はロウティーンのうちからチヤホヤされて恋愛というドラッグばかりにかまけてしまい、スポーツに打ち込む暇がなくなってしまうからである。そして、社会がそれを容認している。

 外国は違う。恋愛というドラッグに溺れていると未来がないと皆わかりきっている。だからこうして何かに打ち込む女が多いのだ。だが日本はそうではない。皆が皆恋愛というドラッグに溺れまくっている。このような事態に私は危機感を持っている。このままでは今の20~40代の女が全員ホームレスになってしまうのがわかりきっているからだ。

 かと言って今から彼女らにスポーツに打ち込めと言ってももう年齢的に無理がある。良い仕事をさせようと思ったら尚更無理がある。と、なるとサブカル的なモノで自己を確立させてもらうしかなくなる。

 そこで私は釣りプロを思い出した。釣りならほとんど男女の体力差は影響しないし、釣った後の〆だのなんだのは女のほうが得意なんじゃないかなとか思ったからだ。しかも日本の釣り文化は諸外国に比べてハンパないレベルを誇る。

 そういうわけで釣りプロの女をプロデュースすると面白いのではないいだろうか。持ち上げられてる感じではなく超本格派な…釣りドル!!!ホームレス予備軍の希望の星!

 笑いは緊張の緩和から生まれる。タイトルどおりである。笑いはタブーから生まれる。
 タブーが多い社会ほど笑いも数多いパターンで生まれるというわけである。日本、イギリス、それからアメリカのジョーク、コメディーというものを見比べていると、アメリカでは人種差別ネタばかりが目立つのがわかる。

 おそらくアメリカという社会はみんなオープンだし、年上、年下みたいな緊張とか、男女間の緊張とか確実に日本よりは社会における緊張が生まれるシチュエーションってもんが少ないからであろう。最も緊張するのが人種ネタであるから、アメリカでは人種ネタから笑いが生まれるのである。

 反対に日本で異常に多いのが、失敗に対する侮蔑の笑いである。日本は失敗に対して緊張が強い。一度失敗したら落第のレッテルを貼られるお国柄が関係しているのか、そして周りがその失敗に対して非常に神経質になるからだろうか。とにかく失敗というものが日本ではタブーになっているのである。

 タブーが笑いを生み出す良い例

Gaki No Tsukai (Brazilian Version)
http://www.youtube.com/watch?v=4veeAkSWSFM
Italian Gaki No Tsukai – Trailer Primo Incontro
http://www.youtube.com/watch?v=LVysOttn5Po
Gaki no Tsukai – Portuguese Version
http://www.youtube.com/watch?v=ap_oJqmFnFE

 

 奴隷根性というものがある。これは支配階級から見た考え方で、「奴隷には所詮奴隷として生きていくだけの考え方しか出来ない」というものである。古代ギリシャやローマ、そしてイスラム世界、インドのカーストと、あらゆる地域で奴隷というものは歴史的に存在し、一部は現在でも残っている。南アフリカのアパルトヘイトなどもこの一種であった。

 奴隷身分の人間は長期的視野に欠けていることが多く、実際に奴隷階級が支配階級になると自分に都合のいい政策しかしなかったり、逆らう者や気に入らない者を大量粛清したり、大量の汚職をしてみたりととにかくロクなことにならない。一番いい例が南アフリカやシエラレオネである。歴史的には血塗られたエジプトのマムルーク朝がいい例であろう。

 これは、彼等が奴隷のモノの考え方から逸脱していないせいである。奴隷階級は、自分達が世界を作れるとは露ほども思っていない。今あるものから搾取することばかり考え、そこから先のビジョンなど見えていない。何故なら彼等には搾取する側とされる側、という社会構造しか見えてこなかったからである。自分が社会システムそのものを作るなんて考えは最初からないのである。

 さて、現代の日本を見てみよう。現代の日本人の多くは、いや99%と言っても過言ではない。日本人はそのほとんどが奴隷根性である。「苦労は買ってでもしろ」「働かざるもの食うべからず」「お上には逆らえない」等のキーワードを挙げれば皆さんピンと来るのではないだろうか。

 日本人は頭を使って楽することを罪とし、頭を使わないで苦労することを美徳とする民族なのである。何かと分相応という単語を使い、デカいことをしたがらない、気が小さく、冒険的な事を好まない。奴隷根性民族なのである。

 だがしかしこれはおかしい。日本という国は自然が豊かで、食い物には困らない環境であったはずだ。どちらかというとタイだとか南の島に近い生活環境だったはずである。彼等はどこか能天気である。全くセカセカしていない。事実、昔の文献を読むと昔の日本人は相当能天気である。滅茶苦茶適当で、大麻と酒ばかりやっていたようだ。今の日本人とは大違いである。

 では一体どこで日本人が狂ったのだろうか。私は徳川家康が作り上げた士農工商カーストシステムであると思う。豊臣秀吉だか松平誰彼だかが「農民は生かさぬよう、殺さぬように扱え」と言ったことで有名だが、彼は武士という支配階級を使って徹底的に下位カーストを苛め抜き、奴隷根性と奴隷の考え方を植えつけた。彼がどこからこのような支配階級の考え方を身に着けたのかは謎だが、結果として士族階級以外は奴隷根性へと変貌を遂げていく。

 だがしかし、幕末になって支配力が弱まると日本人が本来持っていた気質が復活し、幕府は安政の大獄などでこのような危険思想を取り締まったが遂に抑えきれなくなった。ええじゃないか音頭騒動などはこの典型的な例である。

 そして時は流れ、奴隷階級でない維新志士達によってついに徳川幕府が打ち倒される。この過程で維新志士、幕府共に農民を兵士として教育した。日本中に奴隷根性ではなく、支配階級の考え方を持つ人達が増えたのである。しかし、新政府が考えたことはカーストシステムの継続であった。そしてそのために、溢れすぎていた支配階級を排除しようと決めたのである。これに猛反対したのが西郷隆盛である。西郷は結局、士族という支配階級と共に滅亡の道を辿る。

  この時点で、日本国民のほとんどは奴隷階級出身の奴隷根性の持ち主となった。しかし一時的にそれがまた回復する。世界的に戦争の兆しが強くなり、どこの国も国民を兵士として育て始めた。日本も例外ではなかった。そのため大正時代は支配階級の考え方を持つ人が再び増えていった。そして日本は太平洋戦争へと進む。

 戦争では勇敢な精鋭ほど先に死ぬ。日本は派手に負け、わずかに残っていた支配階級層の考え方だった人はほとんどが帰らぬ人となった。GHQは日本を更に支配しやすくするために、当時の首脳陣達の処刑、支配階級であった華族の解散、財閥の解体、3S政策による奴隷根性促進、大麻の焼き払い等を行った。文字通り日本は骨抜きにされたのである。そして、これに日教組が拍車をかける。こうして出来上がったのが現在の日本人、超超奴隷根性民族なのである。

 ところでここまで書いてみて思ったんだけど、俺と同じこと考えて本にしてる人絶対いるよね?

 

 人間は物事を判断する時、最終的には3つの基準の中で自分が一番重視しているものを拠り所とする。
その3つとは

1 気持ち良いか良くないか
2 正しいか正しくないか
3 自分にとって損か得か

 この三者はそれぞれが違う方向に向かって進んでおり、重なる部分もあるが、三者が複合的に判断される事は決してない。人間は最後、必ずどれか一つを拠り所として判断を行う。

1 気持ち良いか良くないか

これは限りなく原始的で本能に近い判断基準である。自然が豊かで、人間が難なく暮らしていける環境ではこの判断基準を重視する人が多い文化が形成される傾向がある。古来日本もこのタイプであった。この判断基準を最終的に心の拠り所にする人間は良く言えば無垢で素朴、悪く言えば自堕落で動物的と言えよう。

2 正しいか正しくないか

主に一神教文化圏で見られる判断基準である。一神教では唯一神のみが正悪を決定するため、正しい選択肢というものが一つしか存在しない。そしてその神の決めた善悪に沿って行動する人間というのは、神に近づきたがっているとも言える。この判断基準を最終的に心の拠り所とする人間は潔癖症で完璧主義者が多い。

3 自分にとって損か得か

重商主義帝国で出来た判断基準である。中華文明圏では古代より国家=大商社であったので、この判断基準を重視する人が多い文化が作り上げられた。近世に入り、西欧諸国でも重商主義国家が現れ、このような価値観を持つ人々が増えた。この判断基準を最終的に心の拠り所とする人間は、手段と目的が逆転しており、機械のように生きることを美徳とする人が多い。

 まずは自分がどのタイプなのか見極めることが大事である。そして、自分の周りの人間がどのタイプなのかも考えてみよう。気の合う人間というのは絶対に同じタイプである。反対に違うタイプの人間と気が合うことは決してない。

我々アルタイ語族と呼ばれるグループは
SCOV
という順番で並んでいるが他の多くの言語は
SVOC
という形をとっている。

一番の問題となるのは、Vの位置である。
なぜ言語がこのように二つに別れたのか、これの秘密は会話にある。実はSVOCの形を取ると、最後まで相手の会話を聞かないと相手が何を言いたいのかわからない。
つまり、SVOCタイプの言語は、「聞く」ということに重点を置いて発展した言語とも言える。反対にSCOVタイプの言語は、「言う」ということに重点を置いて発展した言語である。

会話においてそれを感じることが出来るはずだ。SCOVタイプだと、人の言葉を遮って返すことが出来るが、SVOCタイプだとなかなかそれは難しい。会話は常にキャッチボールになる。

しかし面白いことに、SCOVタイプの文化ほど、「言わない」ことに美学を置き、SVOCタイプの言語ほど、「言う」ことに美学をおいている。そしてSVOCタイプの言語文化の人ほど人の話を「聞かない」傾向にあり、SCOVタイプの言語文化の人ほど人の話を「聞く」傾向にある。

質問系の台詞ほどこの特徴が顕著に出る。
ためしに映画の会話などを翻訳してみると良い。
では皆さんどうぞ。

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