鉄は熱いうちに打てとはよく言ったものだ。私はこの言葉を常に胸中に秘めているため、絶対にチャンスを逃さない。反対にこれが原因で私のことが苦手な人もいるのかもしれない。
人と何か共同で物事をやろう、という時、その話が盛り上がった時に後々の事まで細かく決めておかないと、だいたいその話は流れてしまう。だから私は話が盛り上がったら隙を逃さずに話を詰めるようにしている。この時の相手の態度は次の二通りだ。
1、ガンガン食いついてくる
2、だんだん返事が遅くなり、最後は返事が来なくなる。
2のパターンの場合、じゃあ返事を急かさないでゆっくり待っていれば話が成立したのかというと、そんなことは全くない。2の反応を見せる人はそもそも最初からやる気がないのである。
同じ事が人生にも言える。自分が話題の人になった時、隙を逃さずどんどん注目を集めるようにする。また来年頑張ればいいや、とかおいしい話が来たけどまた今度、なんて考えていたら鉄(大衆)は冷えて、何の反応も示さなくなってしまう。
また自分がミスした時や大事な人間関係を失った時も、すぐに謝ったりすぐに追いかけることが大事である。そうしなければやっぱり人間関係は冷めてしまい、うまくいかなくなるものである。
鉄は熱いうちに打たなければダメである。
» 2017 » 4月のブログ記事
私はムスリムであるが、無神論者的立場から合理的に物事を解釈するのが好きである。はっきり言って正統派からすれば邪道で、破門モノだろう。
1神教が人間とその他をはっきりと区別するのは、砂漠で生まれた宗教だからである。砂漠では農作物はあまり取れず、牧畜に頼るしかない。しかし動物に人間と同じ「格」をいちいち認めていたら殺すことなんてとてもできなくなる。だから「人間は動物とははっきり別である。家畜は人間のために作られた」と教えるわけである。神が一つなのも同様の理由である。唯一神以外を認めていたら、動物や大地に神が出来てしまい殺生が行えなくなり、ベジタリアンになっていくのはインド発の宗教を見ればわかるであろう。ヒンドゥー、ジャイナ、仏教全部ベジタリアンである。
さて話を本題にして、今回は豚食の禁である。ユダヤとイスラムはこれを禁止している。これにはいろんな合理的見方ができる。一番有名な説は寄生虫説であろう。次にサルモネラ菌。どちらも非常に説得力がある。続いて首がないから説、エロホルモン説などイスラムにしか見られない合理的解釈もある。
で、最近面白いことが発見された。実はなんと「キリスト教も豚食は禁止していた」、ということである。が、しかしこの戒律は広まることなく封印された。理由はすでに西欧の大部分が基本豚食であり、反発が必至だったからである。最初は守ろうとしていたのだが、広まっていくにつれスルーされていったとか。
話を戻そう。キリスト教側の新発見でユダヤ、イスラムの豚食の禁にも新しい説が出てきた。
それは
「ユダヤやイスラムは遊牧民だったから、定住し農作物で豚を
飼育する農耕民族に対抗して、
「あいつらの食ってるのは汚らわしい動物」ってことにしとかないと
いけなかったんでしょ。豚を認めることは文化の根幹を揺るがすことに
なるから。」
というものである。なかなか面白い説なので検証してみたいと思う。まず豚って農作物でしか育たないものなのか?豚を放牧していた民族とかいないのだろうか。