» 2012 » 7月のブログ記事

 俺王国の音楽はナシド以外歌詞すべて禁止である。理由は歌詞をつけると善悪の判断もつかない子供が刹那主義、恋愛主義、ギャングスタに走ってしまうためである。

 また、売り手のほうもそのほうが売れるので刹那主義、恋愛主義、ギャングスタの曲ばかり発表する。そこに真の芸術など存在しない。そもそも真の音楽という芸術の中では、ヴォーカルなど邪魔な存在なのである。

 俺王国はドラッグすべて合法なので、音楽のレベルは異常なほど高い。また、トークボックスを使ったラップは合法である。管楽器を使用し、ブレイクビーツに即興で合わせるという面白い音楽スタイルも存在する。

 そして音楽ファイルのダウンロードに違法というものは存在しない。この内田貴洋は生演奏で稼げる人間のみをミュージシャンとして認めているからだ。事実、ライブのほうがCDよりも良い歌手はライブで随分と稼ぐ。そもそもこのような稼ぎ方こそがミュージシャンの正統であり、録音した音楽をCD等にコピーして利益を上げているのはただのエフェクト屋である。
 実際問題彼らは生で表現できないような手法を取り入れたり、一発取りでなく繋ぎでレコーディングしていたりする。こんなものをミュージシャンとして認めてはならない。これならどんなに下手糞でも、どんなに才能がなくても金を稼げてしまう。最終的には金とコネを持っている奴が適当な奴にはした金で曲を作らせて、金でスタジオミュージシャンに演奏させて、金で編集した曲を売ってミュージシャン気取りをするようになる。90年代の日本なんていい例である。なのでこういうのは認められない。

 俺王国のミュージシャンのメディア露出についてだが、当然女は顔を出してはならない。これは女の性質の常で、自分より美しいものには嫉妬し、実力を認めないからだ。また男側も美貌に釣られてありえない評価を下したりしてしまう。これではまともな女ミュージシャンは育たず、女性差別を加速させることになってしまう。よって女ミュージシャンが顔を出すことは違法とする。男も化粧したりするのは禁止である。

 戦争の歴史を紐解くと、青銅器から鉄器の時代、歩兵戦術から騎兵集団戦術、騎兵集団戦術から散兵戦術の時代と様々な転換期があった事がわかる。そして相手をどの地点で叩くかというのがポイントとなり、相手が陣形展開する前に攻撃する事を重視したために戦場が陸―海―空と移り変わった。現代戦では制空権を確保する事が最重要項目である。

 だが実は完全なる空の戦いというのは距離が近くないと不可能であり、太平洋、大西洋に面した国の殆どは航空母艦をベースとした戦術を取るのが実情である。言うまでもなく航空母艦は艦と名前がついている通り、海の道具である。上に挙げたセオリー、すなわち敵が陣形展開する前に敵を攻撃するという法則に基づくと、この航空母艦が出航した直後にこれを沈めてしまえば自軍の損害はほぼゼロで敵に大損害を与えることが出来る。制空権の確保も容易になる。

 さてそこでこの内田貴洋が考えるのは潜水艦防衛システムである。海の中というのはまだまだ未知の領域で、今後重要視される戦域である。世界で最も神に近い内田貴洋はこの重要性をいち早く見抜いていた。

 そこで俺王国の潜水艦防衛は以下のように行う。
・ 航空母艦ならぬ潜水艦母艦の建造
この潜水艦母艦は戦闘潜水艦、輸送潜水艦、機雷艦の母艦となり、自らが浮上する事はメンテナンスの時以外ない。食料や物資、人員の補充は付属する補充艦が行う。内部には圧力弁を備えたドッグがあり、ここから様々な潜水艦が出航していく。
・ 戦闘潜水艦の建造
 航空機の戦闘機と同じである。単座または複座で、潜水艦同士の戦闘に特化している。敵の駆逐艦、巡洋艦、空母に攻撃を行うのもこれである。
・ 機雷艦
これは航空機で言うと爆撃機にあたる。機雷をばら撒く事と、その回収が主な任務である。

これらの潜水艦達に、対地対空ミサイルを備えた従来の潜水艦を加えたものを1チームとし、世界中の海に潜らせておく。こうする事によって敵(主にアメリカ、中国、ロシア)の部隊が出動する前にそれを叩いて沈めてしまう。以上内田貴洋の世界で最も進んだ国防論。

イスラム文化が嫌われる理由の一つに、どこでもかしこでもアラビア半島風の建築物を作り、風景を台無しにしてしまうというのがある。そこで内田派のモスクはなるべく現地の建築様式に合わせたものにする。
日本でも幸福の科学などが周りの景観に全く考慮していない宗教施設を作ったりしているが、ああいうのが顰蹙の元である。周りが近代的な和洋折衷な建築なら、同じような造りのモスクを作ればいいだけの話である。
この際、ミナレットはなるべく目立たないように設計される。また合理性を重んじる内田派ではオドの際にどうせなら全身洗ってしまえ、という事でモスクにスパが併設される。オドの際に湯船に浸かる事によって内田派のムスリムはより強い一体感を得る事が出来る。このスパは喜捨によって運営され、また食いっぱぐれ達はこのモスクの清掃及びスパの清掃、運営によって日々の糧を得る。
 マスジトの床が絨毯だというのも合理的ではない。高温多湿の国では病原菌主に水虫の巣窟になってしまうし、実際足臭いモスクが多い。せっかくオドで身体を清めたのに礼拝中に汚れてしまってはオドの意味がなくなる。
 よって日本ならば畳、ヨーロッパならばタイル、砂漠地帯では絨毯、とフレキシブルに対応していくべきである。

イスラム教内田派

 内田派は前衛的、先鋭的イスラムを目指すモスリムの集団によって形成された派閥である。内田派の最大の特徴は、無神論者的視点による結果論から、信仰の正統性及び法解釈を導き出す所である。社会学と密接な関係がある派閥でもある。

 合意、ワクフが特徴であるファナフィー学派と共通するような特徴であるが、ファナフィー学派がスンニであるのに対し、内田派はスンニでもシーアでもない、ハワーリジュ的な側面を持つ。ある一定の条件に対してファナフィーは非常に緩やかであるが、内田派は厳しい。また、その逆も然りである。

 内田派はこれまでのモスリムの敗北を教訓とし、何よりも武装を最優先する。例えそれがイスラム的に芳しくない事柄でも、勝利のためなら武装が優先される。例えば進化論である。伝統的イスラムの見地に立ち返るなら、これは否定するべきである。しかしこれを否定してテクノロジーの発展に追い付けず、ユダヤやプロテスタントに打ち滅ぼされてしまっては何の意味もない。悪貨が良貨を駆逐するのがこの世の常である。しかしそんなことを容認していたら人類の未来はなくなる。我々が種として存在しえる以上、我々にはこの種の繁栄を望む義務がある。

 内田派は他の宗教や他の神を否定しない。アラーが真理であることに揺るぎはないのであるから、単に他の宗教の人達は気付いてない人と認識する。彼らは彼らの人生である。真理に気付いてないからといってそれを強要したり教えてやる必要はない。愚かな人生を送って勝手に死ね、という事である。この辺がハワーリジュ思想に似ている。教義というのはあくまで自分で気付くことが大事なのである。子供の教育と同じである。本人が明確な目的意識を持って臨まない限り、身に付かないし意味がないのである。

 内田派はスポーツ、武道などで肉体と精神の融合を追及し、その過程でアラーの存在を体感する事を推奨しているスーフィズムの側面を持つ。己の肉体は己の精神で完璧にコントロール出来る事はありえない事を学び、そこにアラーの存在を見出す。このような教義を持っているため、他宗派と違い女性のスポーツ、また競技会は推奨される。

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