» 2011 » 5月のブログ記事

 この日本、そして多くの文化圏で、今最も一般的なのは恋愛結婚である。殆どの場合、男が女にアプローチし、女はそれを取捨選択するという構図が成り立っている。男は女の気を引くために、様々なプレゼントをしたり、サービスを提供したり、心理的なケアをしたり、ドラマティックな演出をしたりする。こうしてうまく女の気を引いた男が、女を獲得し、結婚に至る。

 普遍的なこのモデルの中にこそ重大な欠陥が潜んでいる事に諸君はお気づきであろうか。それは、恋愛が幻想、劇場型の世界であるのに対し、結婚は現実そのものという矛盾である。すなわち、どれだけ幻想世界の劇場に女を引っ張りこめたかが男の勝負になるのに、いざ女がその男と結婚してみると、一気に現実に突き落とされるという欠陥である。結婚したら男は金銭的、労力的にいつまでも幻想世界に女を置いておくわけにもいかず、釣れた女に与える幻想世界劇場の質、量は結婚後どんどん減らしていく事になる。女はそれまで沢山の幻想世界劇場を与えてくれていた男が、その量を減らしていく事に関して「愛が薄れた」と感じるようになる。場合によっては別の幻想世界劇場を与えてくれる男に浮気心を抱くであろう。或いは結婚後も幻想世界劇場を女に与え続ける男がいるかもしれない。だがそのような男はいずれ心労がたたり、その家庭は駄目になる。また、このような過当な恋愛競争に晒された結果、男が必要以上に幻想世界劇場を女に与えてしまい、女側が自分を磨くことをやめてしまうというのも大問題である。

 結局のところ、この恋愛結婚システム自体は無理があるのである。そもそも恋愛の決定権が女にあるが、結婚の決定権が男にあるというパターンが9割以上を占めるこの社会のシステムでは、恋愛と結婚の間に矛盾が生じるのは当たり前なのだ。決定権の推移により、結婚後、男は女に自分の弱さを見せるスタンスが要求され、女はいかにして自分の持っている資本を男に与えられるかというスタンスが要求される。男も女も結婚前と結婚後で正反対のスタンスが求められる事になる。だから結婚前と結婚後でお互いの性格が変わってしまい、破綻する。よってどちらかに決定権を揃えるやり方こそ、無駄がなくスマートに結婚生活に移行できるやり方なのである。

 女→男というアプローチをとる恋愛結婚だったらどうであろう。この場合、恋愛の決定権も結婚の決定権も男が握っているので、これは正しく成立する。女はいかに自分が魅力的か、いかに自分が家庭内で有能か、いかに自分が強い愛を示せるか、を男に提示する。男はそれを取捨選択して好きな女と結婚すれば良い。女が男に与えているものは最初から現実的なものであり、幻想世界劇場ではないので女は結婚前と同じスタンスを家庭内で貫けば良い。先のモデルにあるような、結婚前と結婚後のギャップ、それに伴う心理の変化、浮気心などというトラブルとは無縁である。これが正しい恋愛結婚のあり方である。

 では女に決定権を揃えるやり方は何か、それはお見合いである。女が気に入った男と先に結婚し、結婚後にその男と恋愛する決定権をも握るわけである。このやり方は先の女→男のモデルと比べて、条件を第一に指定するため、後々のトラブルは先の女→男の恋愛結婚モデルよりも格段に少ない。男はいかに自分が経済的、社会的に有能か、強い愛を示せるかを女に掲示し、女はそれを取捨選択する。一見男→女の恋愛モデルと似ているように見えるが、先に結婚という生活の現実が来るため、男が女に幻想世界劇場を与える必要もなく、ギャップは生まれない。

 内田貴洋はこの二つのモデルを推奨する。従来の男→女恋愛結婚は破綻モデルだと断言する。事実、男→女の恋愛結婚をした後、専業主婦で家事分担、だとか、専業主婦で育児分担、だとか、結婚後も優しくお姫様扱いしろだとか、そんな現実が見えてない妻に嫌気が差して離婚したがっている男を大勢知っている。このモデルは良い家庭を作るのには不向きであるから全世界の男は女にアプローチする姿勢を捨てるべきである。以上世界で最も神に近い男、内田貴洋の真理を見通す眼。

 

 少し前の日本で、中学校の清掃を自分達でやるか、業者に任せるかというのが話題になった。自分達でやれ派は清掃も教育の一環である、という理由であり、業者派の主張としては、「清掃の仕方なんて他で学べる」「学生が掃除して綺麗になるわけがない」という類のものであった。だが、問題は清掃の効果そのものではないのだ。

 実はこの内田貴洋の中学校はインターナショナルであり、清掃は業者が行っていた。そこで生徒はどのような振る舞いをするかと言うと、ゴミは散らかし放題、消火器は毎日ぶちまける、トイレの蓋の上に糞をする、トイレットペーパー投げあい合戦、など散々なものであった。何故このような事をするのか、答えは簡単である。自分達が清掃しないのだから、いくら汚そうが気にならないのだ。また、業者が完璧に清掃するため、どんなに汚くしても翌日には綺麗になっている。だからどこまでも汚して平気だと思っていたのだ。

 これが自分達で清掃する羽目になっていたらどうだろうか。自分達で汚せば汚すだけ自分達にツケが回ってくる。なのでなるべく汚さないようにしようとする。実は教育云々ではなく、この事実のみが大事なのである。似たような例として自宅で食事するのと、外食との差を考えてみてほしい。自宅の食事はなるべく洗い物が出ないように工夫したりするが、外食ともなると食器を灰皿にしたり遣りたい放題である。食器を洗う苦労をわかっている人でも、このような事をする。つまり大事なのは自分達で後始末をしなければならないという事実であって、掃除の仕方を学ぶだの、清掃する立場の視点を持つだのではないのである。

 アジアの都市によくある屋台を想像してほしい。残飯や調味料の残り、食器を洗った水など路上にぶちまけて帰っていく。これも、自分で掃除をしないからやる所業なのである。ロンドンの裏路地や新橋の横丁が小便まみれなのも同じ理由である。個々は掃除の大変さを理解しているはずなのに、やってしまう。ツケが自分に回ってこないからだ。

 以上の点を踏まえて、内田貴洋王国では清掃を義務とする。清掃地域を割り振り、週に1回そこを清掃させる。清掃担当は居住地区ごとにグループが割り当てられる。例えばA町1丁目のグループはA町の公園、2丁目のグループはA町の公衆トイレ、などといった具合である。この清掃グループは地域の交流と、性別、人種、年齢を超えたコミュニケーション能力の育成をサポートすることにもなる。清掃グループは半年ごとに組みなおされ、担当も変えられる。

 地域グループワークを行うことによって地域に愛着心を湧かせることと、その土地を汚さないよう振舞う習慣を根付かせるのが、この清掃義務の狙いである。また、よそ者が来てすき放題散らかしていった場合、前述の決闘が地域住民とよそ者の間で行われる事になる。尚、内田貴洋王国の国民の義務に、労働は入っていない。以上内田貴洋の理想の王国。

 

 内田貴洋王国では、車高に制限を課す。何故なら車高が高いほどスピード感覚が麻痺し、事故に繋がることが多いからだ。ここでポイントなのは、速度と事故率に直接の関係はない、という事である。あくまで、体感スピードと実際のスピードのズレが事故に繋がるという事である。よってスピード制限は課さないが、スピード感覚の麻痺は取り締まる、という方針になる。何事も取締り取締りではなく、根本の改善が必要なのであるから、車高の高さを制限するというのは理に適っている政策である。

 第二に、車高が高いと後続車から標識や看板が見えづらくなり、急な車線変更等による事故に繋がる。これを防止するためにも車高制限は有効である。

 第三に、内田貴洋王国の鉄道は、車ごと乗り込むタイプの物を製造する。この際車高が高いと、格納が厄介になってしまう。規定の車高制限を設けておけば、二段或いは三段まで対応できる。

 大型車にもこの規制は厳格に適用され、最も高い車種はコンテナ車である。しかしこれもコンテナを載せる部分を凹ませて作らせるため、他国のコンテナ車と比べるとずいぶんと低い。その代わりに車幅に規制は全くない。2車線3車線をまたぐ車両でもOKである。

 

 内田貴洋は持ち家というものをあまり勧めていない。何故なら持ち家にはリスクが付きまとうからだ。代表的なものとして金利リスク、貨幣価値リスク、災害リスクなどがある。また、持ち家を持ってしまうと移動が困難という事が生じる。かといって、すべてを賃貸にしてしまうと、借主は自分のものではないから大事に扱わないし、増築なども出来ない味気のないものとなる。そこで考え出したのがトレーラーハウスである。ただし、コンテナタイプをメインとする。

 内田貴洋王国はあちこちにコンテナハウス用の、上下水道、ガス、インターネットなどのインフラが整備された土台が置いてあり、借主は賃料を払ってその上にコンテナを設置する。各コンテナは合体したり通路で繋がったりするようにデザインされており、コンテナハウスの集合体がひとつのホーム、コンテナハウス一個が個人の部屋となるように設計されている。家族の形態によってこのホームは柔軟に形を変えられるようになっており、例えば長男が嫁を娶った場合、ひとつのコンテナハウスを増やすだけで済むようになっている。更に台所コンテナ、リビングコンテナを買い増やすか、親から譲り受けて独立世帯にするのも自由であるし、そのホームから独立して別の場所に住むのも自由であるし、金がなくなったらホームに戻ってきて再合体するのも自由である。

 この方式なら災害や戦争にも強く、引越しも非常に楽である。まさに現代のベドウィンと言えよう。以上内田貴洋王国の素晴らしき生活。

 

 今、日本では外食産業の発達が目覚しい。しかしインドを除く殆どのアジアの国では外食産業が異常なほど発達しており、自分でご飯を作るよりも外食したほうが安いのはザラである。特に中国などはその発達が凄まじく、夕飯以外は外で取るのが一般的である。これに加え、最近では家電の発達も凄まじい。本当に家庭でのいわゆる主婦の仕事がなくなりつつある。以前のエントリでも書いたが、家庭内で仕事がなくなるという事は、いなくなっても困らないということである。すなわち、家庭内で権利を失い、加齢と共に性的魅力も失っていくので、専業主婦がお荷物にしかなりえなくなっていくという事である。近い将来、日本もインドのように女のほうから結納金を払って結婚してもらう、という社会になってしまうであろう。

 この事態を打開するためには、いわゆる「女性の社会進出」が必要なのであるが、これは決して男の社会に女を導入しようという事ではない。多くのフェミニストや政治化はここを間違えてしまった。男の仕事に女が入っていっても勝負になるわけがないのである。男と女は身体の構造、脳の構造、すべてが違う。男が得意な仕事は女には向いていない。少なくとも男と競争しても勝てない。

 では一体どうすれば女の雇用を促進し、このような女余りの社会現象を回避できるであろうか。答えは簡単である。女に向いている仕事を作ってやれば良いのだ。

 女が男に比べて優れている部分はいくつかある。

・我慢強い
 男と比べて室内にじっとしているのも平気である。ストレスに強い。
・マルチ脳
 皆さんの周りにも、ゲームしながら料理しながら電話しながらインターネット、なんて女は一人や二人いるはずだ。
・言語が得意
 論理的思考は苦手であるが、言語そのものを操るのは得意である。語学の上達は女のほうが早い。
・汚物耐性が高い
 これは身体の構造上どうしてもこうなる。

 このような女のほうがすぐれている点を勘案して、女向きの仕事を作ると、

・ライン工
・単純入力業務
・保育園
・コンビニなどの専門知識のいらない販売業
・宅配便受け取り屋
・通訳及び翻訳
・病院関係
・洗濯屋

となる。実は日本以外の国では女の仕事としてメジャーなものばかりであるが、なぜか日本では男の仕事になっているものが多い。特に工場関係は男ばかりである。このような間違いは是正するべきである。以上内田貴洋の未来への啓示。

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