ルカ15章ー25~32節
放蕩息子の弟とまじめな兄
この例えでは、二人の兄弟が出てくる。
兄
良い行動
社会の模範生
出世する
名誉がある
地位がある
弟
ふしだらな生活
暴飲暴食
飲む
打つ
買う
異性関係が滅茶苦茶
だが、この兄弟のうち、神に救われたのは弟であり、兄は救われなかったという例え話がなされている。その理由は、兄は神に懺悔せず、弟は懺悔したからである。いかにも慈愛の宗教、キリスト教らしい発想だと言えよう。
怒りの宗教イスラムではこうはいかない。弟は公衆の面前で公開処刑である。と、まあここは話の本筋から外れるので置いておくことにする。
誰が聞いてもこれは納得のいかない話である。善行を行った人間が救われず、悪行の人間が救われる、これでは悪人天国ではないか。世界は滅茶苦茶になる!と考えるのが普通である。しかしちょっと待ってほしい。
超無神論者の立場から考えると、これは実にすばらしい人間監視システムである。罪が許されないと知ったら、悪人は嘘をつく。自分の悪行を自ら喋ることはない。しかし、悪行を積んでいても懺悔すれば救われる、と教え込めば、少なくともイエスに嘘をつくことはない。(現在では教会の神父、牧師がイエスの役割を果たす。)
こうすることによって、人間の悪行のうち最も厄介な嘘というものを封じることが出来る。つまりイエスは自分ないし司祭たりうる人間が、人を徹底管理できるシステムを作ろうとしていたのではないか、という仮説が成り立つのだ。
預言者ムハンマドもこんなことを言っている。
「ムスリムは酒も飲むし、泥棒もするし、不倫もする。だが嘘はつかない。」
いつの時代も、嘘というのが一番の罪である。