都会と田舎の人間は明らかに性格が異なる。これは田舎と都会で人物を評価するポイントが異なるためである。
田舎というのは何もない場所である。何もないということは、何か物事を達成する時に、創造性が求められる。例えば移動ひとつとってみても、移動距離と燃料を計算し、行く先々の燃料補給場所、タイミングなどを先読みしていかなければならない。但し、行く手を阻むものは何もなく、行動ルートは自由である。
反対に都会というのは何もがある場所である。何もがあるということは、何か物事を達成する時に、規範に対する同調性が求められる。移動の例で言うと、あちこちに人やモノがあるので移動距離や燃料を計算する必要はない。タイミングも計る必要がない。すべてもう出来上がっているからだ。しかし、他人の邪魔になることを避けなければ、衝突は必至になる。なので決められた規範に従うことが最重視されるのである。
つまり田舎と都会は、必要とされる人物像が全く異なるのである。田舎はどれだけ先読みをして行動するかが評価され、都会はどれだけ人の邪魔をしないように行動しないか、が評価されるのである。あの手この手を模索して行動する人間は都会では邪魔者として煙たがられ、田舎では重宝される。反対に何もしないで他人の指示をじっと待つ人間は都会では優等として重宝されるが、田舎ではトロい人間として相手にされないのである。
実はこの何もしない、という事こそ、いわゆる「洗練された」人であり、言い換えるならよく訓練された人、なのである。都会には様々なルールが存在し、そのルールに従うためにはまず第一に自我を捨ててルール自体とその目的について学ぶ必要がある。だから都会人は初動が必ず受身なのである。何をしたいか、よりも、どうすれば非難されないか、が先に来るのである。これは田舎人の創造性とは間逆である。
田舎人は自分のしたいことを決め、物事を先読みし、計画を立てて遂行する。創造的である。都会人は自分がルール違反にならないように振る舞い、その場の状況にいかにうまく対応するかを考える。模倣的なのである。
何かをしまくる人間と、全く何もしない人間。どちらか片方に極端に傾いている性質の人間がいた場合、田舎では何もしない人間はノロまとして淘汰され、都会では何かをしまくる人間が問題児として淘汰される。こうして田舎人と都会人は対極の性質を帯びるようになる。しかしこの両者の性格は同時に存在できない物ではない。創造的かつ、洗練性を持つような人間はどの社会でも高い評価を得られるであろう。どちらか片方で自分が評価されないからといって決して腐らないことである。以上内田貴洋の素晴らしき人間分析論。