» 2010 » 8月のブログ記事

 今回は戦争のエントリ http://www.uchidatakahiro.com/orekingdom/20100111_259.html で述べたこの内田貴洋の戦略論を、どのように実践するかの解説をする。つまり、内田貴洋王国の軍事についてである。

 内田貴洋は文化的侵略以外を攻撃の手段として用いない。例外は2日以内に一族郎党皆殺しに出来る場合だけである。2日以内に一族郎党皆殺しに出来ない場合は、禍根を残すだけである。禍根の連鎖の結果が今のパレスチナであり、ユーゴスラビアであり、アフガニスタンである。憎しみは憎しみしか生まないのである。だから出来る限り恨みを買うような行為=殺人は控えるべきなのである。この内田貴洋は人間を突き動かすパワーのうち、最も強いものが怒りであることを熟知している。なので内田貴洋は殺人を好まない。

 が、この内田貴洋はただの理想主義者ではなく、時には暴力による粛清が必要であることも知っている。よって、2日以内に一族郎党皆殺しに出来るならば、という条件つきで大量殺人を許可している。なぜ2日以内なのかというと、襲撃された集団がパニック状態から回復し、統制をとって自分達の情報を世界に発信するようになるのが最短で48時間程度だろうと見積もっているからだ。制情報権さえ完璧に掌握してしまっているならば、いくら時間をかけようとかまわない。死人に口なしである。しかしインターネットが整備された現代社会で、完璧な情報封鎖は難しい。現実的な数値として内田貴洋は48時間説を提唱する。

 実際問題勝算もないような48時間以内に殲滅できる小規模な相手がこの内田貴洋王国に挑んでくる事はまずないであろう。よって我が王国の軍事行動のうち攻撃は48時間以内に殲滅できる相手への武力行使、防御は48時間以内に殲滅できない大国からの軍事攻撃に対する抵抗となる。この防衛がキーポイントである。先に書いたように、憎しみは憎しみしか生まない。さらに、死人を出して恨みを買うよりは、捕虜にして身代金をふんだくったほうが自国の利益になる。また、捕虜が増え続けていくと相手国の家族らが相手国の政権に対して不満を抱くようになり、民主主義などというアホなシステムを取っている国ならば間違いなく政権交代へと追い込まれるだろう。殺すのは容易いが得るものは少なく、生かすのは難しいが得るものは多い、ということである。以上の理由から内田貴洋王国の防衛はいかにして相手の兵力を生け捕るかに主眼を置く。

 近代戦において、敵主力部隊の侵攻に対して前面衝突とはアホのやる事である。また、内田貴洋王国の民は皆かわいい私の子である。私の子を捨て駒にするわけにはいかない。そういうわけで我が軍隊はスナイパーを主軸にしたゲリラ戦術を防衛のメインにする。老いも若きも男も女も、ほとんどスナイパーにしてしまう。内田貴洋王国ではキャンプを国民の娯楽として推奨し、ある一定の地域ごとに隣国や高山地帯、雨林地帯に毎年一定の期間キャンプさせる事にする。もちろん時期は任意でかまわないが、1年のうち何日、という規定を設ける。他国に侵攻されたら各自治体は一斉にいつものキャンプ地まで非難し、主力となる男兵、子供を守る女兵のグループに分かれて行動を開始する。

 スナイパー達の使用するライフルは貫通力さえあれば良い。殺傷能力はほとんどなくてもかまわない。この弾にDNA改造を施したインフルエンザウィルス等を埋め込み、敵の兵士に着弾させる。兵站においてインフルエンザなどが流行してしまうと、もはや戦闘どころではなくなってしまう。インフルエンザではなく赤痢でも良い。とにかく急速に体力を奪うウィルスを1週間ごとに改造し続け、敵に打ち込みまくる。ワクチンはもちろん自分達しか持っていない。一個小隊に3-4発程度当てることが出来れば、その小隊は自国へ帰るか、ワクチンを求めて我々に投降するかしかなくなる。何せ戦場という極限の状況では、たかがインフルエンザごときでも死人が大勢出る。

 捕虜は高い身代金をつけて釈放するか、誰も身代金を支払わないならば、農奴として使う。そのうちこの内田貴洋王国の文化に脳がヤラれて、祖国を裏切るようになる。最悪、前途の男女比1:2事業で余った女をあてがっても良い。家族が出来てしまえば我が国に歯向かおうなどとは二度と思わないだろう。

 むろんこの防衛システムとは別に、大量破壊兵器の開発や、敵国にスパイを送り込んで爆撃対策なども行う事は言うまでもない。以上内田貴洋の戦術論。

 

 前回のエントリ 俺王国7http://www.uchidatakahiro.com/orekingdom/20100822_311.html でも少し触れた俺王国のモノづくりに関して詳しく述べる。

 内田貴洋は大量生産、大量消費を良しとはしていない。すべてのモノに歴史と文化があって然るべきであると考える。建築物を筆頭とした耐久性の高いモノは特にその製造者を明確にする必要がある。修復者の名前もすべて記載する必要がある。こうすることによって、製造者はきちんと責任を持ってモノを作るとことになる。同時に自分の名前が歴史に刻まれるという社会的認証欲求が常に満たされるため、俺王国の製造業の人間は誇りを持つことが出来る。普通の文化ではこれがおざなりにされてしまうために、製造業の人間の社会的地位が低くなり、モラールの低下を引き起こす。

 製造業の人間のモラールが低下すると、工業文化が衰退し、やがては商業と農業と金融一辺倒になってしまう。商業と金融はグローバリゼーションの流れをモロに受ける事業であり、これらの産業は国家という枠組みと時に対立する。農業はこれはどこの土地で行おうと、或いは外国から買おうと同じである。工業を軽視した国はこうして利益至上主義の売国奴が増えていき、やがては破滅を迎えるのである。歴史を振り返れば古くはカルタゴ、フィニキュア、アラブ帝国、近年ではオランダの衰退の例を見れば明らかであろう。であるから、国家と文化を同立させていくのなら、必然的に工業文化に力を入れることとなる。つまり工業を衰退させてはならないという事だ。この名前記録方式を採用する事により、製造業の人間達は自己顕示欲のために競争を始める。より良いものを作って、名誉を得ようと考えるわけである。これが工業文化を大きく推進させていく力となるのである。

 日常使う製品、それこそ家、内装、家電の外装、食器、車、自転車、衣類、すべてに製造者の名前が入っているわけである。内田貴洋王国の人間の生活は高価なのである。生活そのものが歴史を刻むひとときなのである。このような生活の中で、自国の伝統と誇りを守ろうとする人間が出来上がるのだ。

 しかし内田貴洋王国はイスラム教を国教とする。モスリムの名前はほとんど一定のパターンである。アブドゥラー、イブラヒーム、ムハンマド・・・。これではせっかく製品に名前を入れてもどこの誰だかわからなくなってしまう。そういうわけで内田貴洋王国の国民となる人間は今のうちから唯一無二のサーネームを考えておいてもらいたい。尚、アラブ語の母音はアイウしかないのでエとかオとかEとかIは使わないように。以上世界で最も神に近い男、内田貴洋の啓示。

 内田貴洋はゴミが嫌いである。よって内田貴洋王国では出来る限りゴミとなる物質を減らす努力をする。そのために製造物には厳しい法規制が課せられる。

 特に使い捨てに対しては非常に厳しく、認可はほぼ下りない。梱包も最低限度にする。なぜなら使い捨てを許容していくと、人々はどうしてもコストパフォーマンスと製造プロセスの簡略化ばかり追い求めるようになり、文化が衰退していくからだ。それは共産主義の国家を見ればよくわかる。人々は歴史ある陶器よりも使い捨てが効き衝撃に強いプラスチックの食器を追い求めた。製造側としても効率性ばかりを重視し、芸術性は皆無になり、簡略化が進んで画一したデザインのペラペラのプラスチックの安っぽい食器ばかりが食卓に並ぶようになった。ロシア、中国、ベトナム、北朝鮮どこの共産国も同じデザインの使い捨てのモノを使っているせいで、どの国もだいたい同じ景色である。歴代王朝の美しい文化は失われいった。文化を大事にする内田貴洋にとってこれはあってはならないことである。

 スーパーやコンビニのビニール袋と割り箸といった超超低コストかつ環境にやさしい使い捨て道具以外の使い捨て道具はほとんど禁止される。飲料は最低レベルがリターナブルびんで、他はだいたい店舗にマシーンを設置しての販売となる。お金を入れたら500ml出てくる、とかそういった類の機械である。こうすることによって水筒文化が発達する。プラスチック容器もほとんど許可されず、液体の洗剤や生活必需品なども店頭補充式販売となる。人々は生活のために、日々自らの入れ物をメンテナンスしなければならない。しかしこうすることによって文化が発達していく。ゴミを出さない、使い捨てをしない、ということで人々は丈夫で長持ちする製品を追い求めていくようになる。よって内田貴洋王国ではすべてのモノに歴史が刻み込まれていくようになるのだが、このへんの詳しいシステムについては別の機会に語ることにしよう。

 また、自然に還元される素材を使うということも法律で定められる。ある特定の強度が求められるものは仕方がないが、それ以外の生分解性のない素材で作られるものは全部規制される。てめえのケツはてめえで拭け、ということである。しかし内田貴洋は巷によくいるエコバカではない。エコを追求することで孵って環境によくない、という現象を引き起こすようなことはしない。

 内田貴洋は作って売ってそれでおしまい。後は一切責任をとらない、というユダヤ銀行システムのような反社会性のある姿勢の企業は徹底的に弾圧するだけである。無責任は必ず誰かが後始末をすることになる。資本主義経済の貧困スパイラルと同じである。積もりに積もったゴミを始末するために、ゴミ始末の施設と人件費が投入され、そのための資金を募り、さらにその資金を募るための社会システムを作り上げ、この一連の作業のためにまたゴミが生産され・・・しかしこれらの活動を行うのは最初にゴミを出した人間ではない。このような不公平を内田貴洋は許さない。

 都会と田舎の人間は明らかに性格が異なる。これは田舎と都会で人物を評価するポイントが異なるためである。

 田舎というのは何もない場所である。何もないということは、何か物事を達成する時に、創造性が求められる。例えば移動ひとつとってみても、移動距離と燃料を計算し、行く先々の燃料補給場所、タイミングなどを先読みしていかなければならない。但し、行く手を阻むものは何もなく、行動ルートは自由である。

反対に都会というのは何もがある場所である。何もがあるということは、何か物事を達成する時に、規範に対する同調性が求められる。移動の例で言うと、あちこちに人やモノがあるので移動距離や燃料を計算する必要はない。タイミングも計る必要がない。すべてもう出来上がっているからだ。しかし、他人の邪魔になることを避けなければ、衝突は必至になる。なので決められた規範に従うことが最重視されるのである。

 つまり田舎と都会は、必要とされる人物像が全く異なるのである。田舎はどれだけ先読みをして行動するかが評価され、都会はどれだけ人の邪魔をしないように行動しないか、が評価されるのである。あの手この手を模索して行動する人間は都会では邪魔者として煙たがられ、田舎では重宝される。反対に何もしないで他人の指示をじっと待つ人間は都会では優等として重宝されるが、田舎ではトロい人間として相手にされないのである。

 実はこの何もしない、という事こそ、いわゆる「洗練された」人であり、言い換えるならよく訓練された人、なのである。都会には様々なルールが存在し、そのルールに従うためにはまず第一に自我を捨ててルール自体とその目的について学ぶ必要がある。だから都会人は初動が必ず受身なのである。何をしたいか、よりも、どうすれば非難されないか、が先に来るのである。これは田舎人の創造性とは間逆である。

 田舎人は自分のしたいことを決め、物事を先読みし、計画を立てて遂行する。創造的である。都会人は自分がルール違反にならないように振る舞い、その場の状況にいかにうまく対応するかを考える。模倣的なのである。

  何かをしまくる人間と、全く何もしない人間。どちらか片方に極端に傾いている性質の人間がいた場合、田舎では何もしない人間はノロまとして淘汰され、都会では何かをしまくる人間が問題児として淘汰される。こうして田舎人と都会人は対極の性質を帯びるようになる。しかしこの両者の性格は同時に存在できない物ではない。創造的かつ、洗練性を持つような人間はどの社会でも高い評価を得られるであろう。どちらか片方で自分が評価されないからといって決して腐らないことである。以上内田貴洋の素晴らしき人間分析論。

 

 

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