イスラム原理主義によると、政教分離こそがすべての過ちの元凶であるという。西欧の唯物主義的なモノの考え方の根本は宗教的理念が現実の生活と乖離していると大衆が認知してしまっているからだというのだ。
キリスト教社会において、教会の説法は素晴らしい理念ではあるがそれはとても現実的なモノではない。教会は禁欲や慈愛を説いたがそれらは理想主義すぎてとても実現不可能な理念であり、教会は自己の権威を守るために「必要悪」の存在を認め、宗教的倫理と現実の生活の区別をつければ良いという妥協に走った。結果として西欧人は道徳が実生活に通じるものではなく、倫理はあくまで倫理とし、実際の生活と切り離して物事を考えるようになった。そして今日の唯物主義と宗教への失望へと至る。これがイスラム原理主義者から見た西欧の過ちである。
だが私はこの説に異論を唱えたい。イスラームとローマカトリック、東方正教会はそれぞれ発達の歴史が違うので単純に現実離れした理念が問題であるとは言えないというのが内田貴洋の反論である。
ローマカトリックはローマ帝国で発展したものであるが、もともとローマ帝国はミトラ教が国教で、キリスト教は迫害されていた存在であった。キリスト教はローマ帝国という政治体制に外部から進入し、徐々に権力を高めていったのである。ウンマとジハードで発展したイスラム帝国とは立場が全く異なる。それ以前の大帝国を見ても、ペルシアのゾロアスター教、中国の道教などに代表される通り、政治的権力があった場所へ宗教が入り込んでいく、という形が矢張り一般的なのである。この形では宗教権威は妥協の形を取らざるを得ない。
たしかにイスラム原理主義者達の主張、政教一致こそが人類の明るい未来を作る、という理論は正しい。理念が現実的で実行可能であることも十分理解できる。だがしかし、既存権力との闘争という点において、原理主義は原理主義実現の現実性からは遠くはなれている。原理主義を押し通すには、ほとんどの場合競合権力を葬り去るしか手段はない。しかしそれでは原理主義に失望する人達が出てきてしまう。いくら頭で素晴らしい宗教理念だとわかっていても、家族を殺されたグループに入信はしないだろう。
イスラム原理主義は理念こそ現実的ではあるが、肝心の布教手段が現実的ではないのである。私はムハンマドを一人の天才であると考えている。ムハンマドがイスラームを起こした時代、武力による原理主義政府の拡張は最も合理的な手段であったろう。だが今ムハンマドが生きていたら、あの合理的な思考の持ち主の預言者が生きていたら、現代の情報化社会で武力によるジハードを敢行したであろうか。私はそうは思わない。
では宗教的理念と現実が乖離したまま放置するのが良いかというと、そうではない。原理主義者の言い分は全く以って正しい。ではどうすれば良いのか。私はここに預言者の必要性が存在すると考える。現実的な布教手段もろもろを考えて、合理的に教義を調整することこそが預言者の役目であり、ノア アブラハム モーセ イエス ムハンマドとアブラハムの宗教が次々と新しい預言者を生み出していったのは理念と実態の乖離をそのつど調整し、改革する人間の必要性があったことの証明である。これぞまさにアラーの思し召しであろう。天才ムハンマドも状況に合わせて教義を変化させていったものだ。キリスト教側ではその後ルターやカルヴァンと言った者達が改革を行ったが、ムスリムでは未だに新たな預言者は出ていない。
今、人類は壮大な過渡期にある。そろそろ新しい預言者が必要になる頃であろう。尤もその役割がこの内田貴洋であってもおかしくはないのであるが。